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姜先生の回顧録  シャボン玉さんのブログより


削除された姜先生の回顧録・第二章 崔先吉女史の思い出;その1
2017/01/08 14:47

サンクチュアリ、亨進様/国進様
姜賢実先生関連

先日4日に李相烈会長が帰国された時、短い挨拶をカカオにアップしてくださったのですが、その言葉を読んだ時、霊的に光がパァ~!と射してくるような感覚を覚えました。


『 天一国二代王が天一宮入宮を勝利的に天の前に奉献されたことで、
      荒野時代を終えて、天一国実体時代を開いてくださった。』


亨進様が毎朝5時から2時間の訓読会を新しい形で意欲的に放送してくださる中、姜賢実先生も席を共にして、しっかりした口調で全世界のクリスチャンたちに向って語ってくださっている姿に感動を覚えます。


亨進様は聖霊が凄まじい勢いで働いている!と言われました。

ご高齢にもかかわらず、お父様と代身者・相続者である二代王を証し、一人でも多くの人たちが繋がってほしいと積極的に精一杯に動いていらっしゃる姜先生を見て、今、皆さんに私が持っている姜先生の回顧録(韓国語の日本語訳)をご紹介したいと思いました。
このブログで紹介するのは、削除部分の多い日本語版ではありません。
韓国語版の日本語訳です。
特に日本語版では読めない「崔先吉女史の思い出」部分を紹介したいと思います。

この本は成和出版社から出版されたのですが、韓国では絶版としてしまいました。
日本語版は、第二章の「崔先吉(チェ・ソンギル)女史に関連する部分」を削除して出版されています。成和社では、おそらく、金錫柄(キムソッピョン)氏の指示で「第一のお母様・崔先吉氏の証」を削除したのだと思います。実は、金錫柄氏がソウル論峴洞(ノンヒョンドン)の姜先生の自宅に入って、姜先生が個人所有しておられた昔の統一教会の資料や写真を没収してしまいました。まるで家宅捜査のようだったそうです。
現在の韓氏オモニの言動から見て、金錫柄氏が直々にそこまで動いたということは、もしかして、お母様の指示が背後にあったのかもしれません。


回顧録は、姜先生の生い立ちから始まります。かなりの長文なので、連載にしようと思います。韓国在住で昔読んだことのある方も懐かしく思い出されながら読んでみてください。連載途中に他の記事が出る場合もありますが、この回顧録連載は続けていこうと思います。


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私の証拠的生涯 (=主を証しする私の生涯)
韓半島に降臨された再臨主
姜賢實(カン・ヒョンシル)



第1部 成長と入教


主イエスがおられる所、そこはどこでも天の国

誠実な信仰の中で成長

高い山が、果てしない野原が、草木や宮闕(きゅうけつ)や
私の主イエスがおられる所なら、そこはどこでも天の国
ハレルヤ賛美しよう 私のすべての罪の赦しを受け
主イエスと同行するので、そこはどこでも天の国


私は1927年10月1日(天暦8月20日)慶尚北道(キョンサンブクド)榮州市(ヨンジュシ)榮州洞(ヨンジュドン)82番地で生まれました。故郷の榮州を思えば、青い山がまず初めに思い浮かびます。小白山(ソベクサン)のふもとに位置し、清い水と青い山があり、美しい自然が保たれた地方です。


また、榮州は学者の地でもあります。韓国最初の 賜額(しがく)書院である紹修(ソス)書院があり、忠孝を誇る学者たちが多く住んでいました。紹修(ソス)書院は、周世鵬(ジュセボン)が天賦の幸福を祭るために建てられた白雲洞(ペクウンドン)書院であったものを、後に李滉(イファン)が郡守として赴任しながら紹修書院として昇格された後、多くの学者や忠臣が輩出された所として有名です。だからなのか今も榮州には善良で剛直(ごうちょく)な人たちが多いようです。


故郷の榮州は昔から基督教の教勢が相当に強い地域です。幼いころ、教会で礼拝が持たれる時には、座る所がないほど人がいっぱいに満ちていた記憶が残っています。おそらく剛直な性格を持った人達が多いので、基督教信仰も熱い信仰をする人達が多かったのではないかと思います。慶尚北道(キョンサンプクド)には榮州と共に、大邱(テグ)と安東(アンドン)が熱心な信仰者が多かった地域です。


特に私が生まれて育った村は晉州姜氏(チンジュカンシ)の姓が多い村でしたが、ほとんどの人が教会に通い、村全体がクリスチャンと言っても過言でなかったのです。晋州姜氏(チンジュカンシ)の信仰はうわさになり、「榮州にある教会の重鎮たちはほとんどが晋州姜氏(チンジュカンシ)」という言葉があるほどでした。


※賜額(사액・しがく)書院:王が名前をつけて額を賜わり書籍·召使い·土地などを下賜した書院


私は父親である姜錫祉(カンソクチ)長老(チャンノ・ちょうろう)と母親の權桂月(クォンゲウォル)勧士(クォンサ)の七人兄弟の中の長女として生まれました。私の家庭は祖父が長老教会に入教した後から篤実(とくじつ)な基督教の信仰を守って来ていました。父母は一日も欠かさず早朝祈祷に通い、夕方になれば父を中心として家庭礼拝を捧げました。おかげで私は母胎にいたときから信仰生活を始め、いつも神様の御言葉の中で成長しました。家庭のすべての生活が神様を中心としてイエス様を正しく信じて従うために努力したのでした。


父は榮州(ヨンジュ)教会で40代で長老として任命を受けました。長老と任命されるには若い年でしたが、信仰が篤実で責任感が強くいろいろな人が推薦をして若くして長老になりました。


父親 姜錫祉(カンソクチ)長老 母親 權桂月(クォンゲウォル)勧士(クォンサ)



私の家は事業をしていたので生活水準は中流程度で窮乏(きゅうぼう)を感じるほどではありませんでした。母は教会の勧士(クォンサ)で静かな人でした。七人の兄弟姉妹を育てながら大声一つ出したこともなく、子供を世話しながら暮らしました。母は自分を前に出したことがなく、周囲の人たちから謙遜な人だとよく言われていました。


家庭で礼拝をするときになれば、父はいつも信実(しんじつ)な生き方を強調しました。祈祷するときや話しをするときには、「人は真実であるべき。真実に生きなければ神様が離れる」としきりに強調してくれました。父が、「真実はいつも真実そのまま現れるのである。神様は生きておられ私たちと共におられるから私たちはいつも真実に生きなければならない」と言われたことが今も思い出されます。


また、父が家庭礼拝を捧げるときだけでなく、いつも歌っていた賛美歌があります。「高い山が、果てしない野原が、草木や宮闕(きゅうけつ)や私の主イエスがおられる所なら、そこはどこでも天の国。ハレルヤ賛美しよう。私のすべての罪の赦しを受け、主イエスと同行するのでそこはどこでも天の国」と小声で歌った父の声は私の心に今も残っています。この賛美歌には、「神様と共にある者はいつも真実であるべき」と言われていた父の言葉と生き方が込められているように感じます。父はいつも私的な場にも礼拝時間にもそのように話し、そのように生きようと努力しただけでなくそのごとくに生きました。


それなので、教会の中でも多くの人達から、姜錫祉(カンソクチ)長老は真実であり御旨のままに生きる人として尊敬を受けました。自然に私も父を尊敬し父の信仰に従って育ちました。


父母のおかげで私は正しい信仰の道を行こうと努力することができました。父が信仰の根本を私の心に植えてくれたとするなら、母は私に信仰の習慣を育ててくれました。幼い頃から私は父といっしょに早朝祈祷に通いました。夜明けに母と教会で祈祷をして一日を始めることが習慣になりました。早朝祈祷を終えて家に帰って来る道で私は、母のように着実に無言で神様を信じ侍り生きなければならないと心に誓いました。


しかし、日帝時代に信実な信仰をすることは易しいことではなかったのです。日本が韓国に神社をいたるところに建て、強制的に参拝をさせたからです。特に1930年代後半からは基督教団にも圧力をかけ、一般信徒たちにも神社に参拝することを強要しました。真実な信仰をしていた私たちの家庭に大きな試練が始まるようになりました。


そうする中、ある日、父の友達である一人の牧師が榮州(ヨンジュ)を訪ねて来ました。その日、父はその牧師と長い時間話しをしました。どんな話をしたのかは知ることはできませんでしたが、天皇を神として侍り参拝することはありえないということで意見を合わせたようです。


結局、父は神社参拝を拒否し警察に引っ張られ収監されてしまいました。その以後、私の家は風飛雹散(ふうひひょうさん=四方に飛び散ること)になりました。警察が家宅捜索をし、父が平素読んでいた宗教に関する本をいくつかに分けて持って行きました。その後、三日も経たずして家に来て母を怒鳴りつけ家の中をひっくり返しもしたりして、私が学校に行けない日もありました。警察は私たち家族を人として扱わず、大きな罪を犯した罪人として扱い監視をしたので、自由に気を落ち着けて暮らすことができませんでした。さらには神社参拝をしない家の娘だと周囲から憎まれました。


それでも私は毎日夜明けに教会に出て父のために懇切に祈祷を捧げました。「神様を信じない人たちの心の中に現れてその間違いを叱ってやって下さい。神様が分かるようにして下さり、彼らが留置場に閉じ込められている人たちを苦しめないようにして下さい」と熱心に祈祷を捧げました。


収監されたときには健康であった父は、獄中であまりにも多くの拷問を受けて病気になり回復が難しくなりました。日本の警察は父が獄中で死ぬかもしれないと心配になり、やっと出獄させてくれました。しかし、すでに重い病気になった父は、終戦(1945年8月)を迎えることができないまま1944年1月3日に亡くなりました。


それで榮州教会では父について、「姜錫祉(カンソクチ)長老は日帝時代に殉教したようなもの」と評していました。拷問で直接殉教したのではありませんが、神社参拝を拒否し収監されてから病気にさせられて亡くなったのですから、姜氏一族から殉教者が一人出たという話になりました。


母は生きている間は変わりなく長老教会で篤実(とくじつ)な信仰生活をしました。いつも「亡くなった父と霊界に行って会ったとき、恥ずかしくないように、申し訳もしないようにしないといけない」という言葉をよく言っていました。1996年に父と母は霊肉祝福を受けました。


神学の道を歩む


終戦以後、私は釜山(プサン)に行って高麗高等聖経学校を経て高麗神学校に入学しました。高麗神学校は父の友達である韓(ハン)サンドン牧師が設立した学校です。韓牧師は日帝時代に神社参拝を拒否し獄中生活をした牧師たちと共に信仰の正道を行くため多くの努力をしました。長老教会の牧師は、父と親しい友達である韓牧師が釜山に神学校を建てたのだから私に入学するのがいいと推薦してくれました。そのとき私は信仰面でも学業面でも模範生だったので、積極的に神学校入学を勧められました。


当時私の心の中には、父が出獄した後、終戦を迎えられないまま父が亡くなったことが一つの宿題として残っていました。父が行った道を受け継ぎ、父が果たせなかった仕事を私が継承しなければという考えになりました。私の氏族に対する神様の御旨、父が亡くなって成せなかったことを私が成して差し上げなければという思いが心から離れなかったのです。


父が成すことができなかった神様の御旨を成すためには、内外的な準備が必要でした。高麗神学校は神社参拝を拒否した教会関係者たちが中心になり建てた学校だったので、父が抱(いだ)いていた御旨を内外ともに準備するためにもっとも適した学校でした。


それで、1950年、高麗神学校に入学しました。神学校に通う間、韓牧師が私を大変可愛がって下さいました。その愛と期待に答えるため、私も最善を尽くして勉強しました。そして信仰生活にも精誠を尽くしました。高麗神学校は保守的な学校で、一日60ページ以上義務的に聖書を読まなければならず、3時間以上祈祷をしなければなりません。神学校に通う間、いつでもどこでも神様に祈祷を熱心にしました。母はそのように祈祷する私を見ながら、「いつもそんなに伏して長い間祈祷をしたら、背中が曲る病気になるのじゃないか心配」と言うほどでした。


高麗神学校は大変厳格に安息日である日曜日を守りました。例えをあげれば、日曜日にはどんな物も買ってはいけません。電車やバスの切符も買ってはいけません。仕事をしてもだめで、外れたボタンを縫うのもだめで、10里以上遠い道を歩いてもだめです。学校からはそのようにあれもだめ、これもだめだという教育を受けたので、どんな事も良心の呵責になり何もすることができなくなりました。


当時、私は聖書を生命視しその御言葉に従って正しく生きようと歯を食いしばって生活をしていました。そうしながら心の中では、「再び来ると約束された主はいつ来られるのだろうか?」という思いが火のように起こりました。


私はイエス様を本当に愛していたので、イエス様も私を必然的に愛して下さると信じました。その信仰は本当に絶対的でした。イエス様が来られる時が近づいたと考えたので、より心が懇切になりました。西暦2000年になる前に来られると聞いていたので、今、来られる時になったという思いになりました。月の明るい夜には縁側に座って月を見つめながら、「主よ、私は本当にあなたを愛します。私が愛するのと同じようにイエス様も私を愛されるでしょう?来られたら誰よりも一番最初に私に会って下さらないといけません。私に一番最初に会って下さると信じています」と祈祷しました。


そして神学校の授業が終われば路傍伝道をしました。普通の信者のようにある形式とかやり方に縛られて伝道するのではなく、私の血と肉と骨の中から湧き出る心情で叫びました。イエス様の事情と心情を体恤(たいじゅつ)した私は、「私が二千年前に生きておられたイエス様に慰労と所望(しょもう)の対象になるはずだから…」と、胸の中から痛哭(つうこく)の思いが湧き上がりました。「イエス様、私は不足ですが、私にはイエス様の切ない血が流れています。この地上に人類を救おうとする御旨が生きています」と叫びました。


当時は、主に会うためにいつも内的にも外的にも準備をしなければならないという考えが切実でした。イエス様が新郎として来られると言われたので、新婦の装いをしなければならない、内的にも外的にもイエス様を迎える準備をしながら暮らさなければならないという思いが心いっぱいに満ちていました。

第1部 成長と入教 


(その1のつづき)
主が私の園に来られた


神学校に通いながらある伝道師と共に凡川(ボムチョン)教会を開拓しました。凡川(ボムチョン)教会は初めに天幕を張った天幕教会として始まりました。金ガプソク伝道師と二人で開拓したのですが、金ボンジョ長老が財政的に支援をたくさんして下さり100名余りの信徒が集まり礼拝を捧げました。


私は熱心に精誠を尽くして伝道をし、信者たちの信仰成長のために徹夜祈祷をたくさんしました。毎日三軒以上信者の家を訪問し、新しく三軒以上訪ねながら伝道をしました。私は神様がこの地域を私に任せて下さったので、ここに住んでいるこの人たちを私がかけた網にみんな引っかかるようにするべきですと真心こめて祈祷しました。神様が私の懇切な祈祷を必ず聞いて下さることと信じました。


また、毎日100名余りを超える信者たちの名前を一人一人呼んでいきながら彼らの事情を神様に報告しました。信者たちの心霊のため余りにも懇切に祈祷してみると、疲れて虚脱するときもありました。また、彼らに神霊の糧(かて)をあげようとすれば、まず私自身の心霊が生きて動いていなければならないのですが、あるときは冷たく感じるときもありました。神様が全的に私に来られて役事されることを感じられないときもありましたが、私の人生をイエス様の人類救援事業のために捧げようと大きな希望と抱負を持って生きました。


凡川(ボムチョン)教会の信者たちは私と一つになってよく従ってきてくれました。食事を作ってくれたり、水をくんできてくれたり、また、おいしい物を買ってくれるなど、たくさんの信者たちが協助してくれたので、活気を帯びて復興するようになりました。そのとき、凡川(ボムチョン)教会に出ていた青年一人を青年会会長に立てたのですが、ずっと後になってみたら監理教の大きな教会の監理士になっていました。


学校の休みの期間になれば、榮州(ヨンジュ)と豊基(プンギ)だけでなく、近くの地域の教会から私を招請して復興会をしたりもしました。そのとき、彼らの心霊が大きく復活しました。神様とイエス様が本当に役事して下さることを実感しました。歴代記16章9節の「神様の目は火花のようで、あまねく全地を見渡し、 その心が御自分に向かう者たちのために能力を与えてくださる」という御言葉の通り、全心を神様に向かわせられるかどうかが問題解決の鍵であると信じました。



変わった話をするというボムネッコルの青年


1952年5月初め、春の気配が寝ていた大地を起こし新緑の装いに衣替えをしていました。その日も私は伝道のため出ていく準備をしていました。そのときちょうど、李ヨンギュという一人の女子大生が訪ねて来ました。その学生は話したいことがあると言い、「ボンネッコルの谷に住むある青年が変わった話をしていました」と言いました。その学生が住んでいる家の近くにある青年が自分で家を建てて住んでいて、一度話をしてみたようです。「どんな変わった話をしたの?」と聞いたら、「人類が堕落する以前の世界を取り戻す方法というものを紹介するのですが、たいしたものです」と言いました。


その学生の言葉を聞いて心配する思いが先立ちました。「救いの方法?その人がどんな人でそういう話をするの?」と気がかりになり細かく聞くと、「私は何の話か聞いてもよくわかりませんが、大変熱心に自信を持って話をしました」と答えました。それで私は、「聖書を読むことにおいても私がその人よりたくさん読んだだろうし、聖書の知識も私がよりたくさん知っているでしょう。ですから私がいったん行って聞いてみた後に行くべきで、その前には行かないで」と頼みました。さらに、「マタイ福音書24章22節の御言葉を読めば、世の末には偽キリストがたくさん現れるが、ここにいるあそこにいると言っても、行ってもならず、追ってもならないとあるので、絶対行ってはいけません」と言いながら引き留めたのです。


そういう話はしましたが、いざ私がその青年を訪ねようとすると複雑な思いになりました。会いに行くべきか行かないべきか?私は神学校の学生であり、教会の伝道師として信者たちに影響を及ぼすことができるので、軽い振る舞いをすることはできないと思いました。結局、「この問題を解決するには、神様に報告して答を得なければ」という結論を得ました。それで、その問題について祈祷を始めました。「神様、ある青年がおかしな話をすると言うのですが、私がそこに行くことが御心ですか?行かないことが御心ですか?行くことが御心ならば、私がどんな方法でも行けるようにして下さい。行くことが御心でないならどんな方法でも行けないようにして下さい」という祈祷を一週間の間しました。



初めての出会い


その日は1952年5月10日土曜日でした。朝から雨が降っていて、私は教会で静かに祈祷を捧げていましたが、ボンネッコルに住むという変わった青年に会わなければという決心が立ちました。「会ってみて賢くて神様が用いることのできる者なら、伝道して神様の業(わざ)をなす働き人に作らなければならない。」という考えをもって、教会を出ました。


午後四時ごろ、道に出てみると雨はほとんどやみかけていました。しかし、青年の名前も知らず、顔も家も知りません。ただ女学生が住んでいる家の近くで、男たちだけで自炊して暮らしているらしいという話だけは覚えていたので、外に出ました。ボンネッコルの坂道を上って行きながら、男たちが自炊している家はどこですかと道行く人たちに聞いてみました。しかし知っている人はいませんでした。聞いてもその当時に自炊して暮らしていた男性が一人二人でしょうか。それでも、「神様、教えて下さい。会うべき人なら神様がその青年のいるところに導いて下さい。」という信仰を持ってずっと尋ねて回りました。


しばらく迷ったあげく、ある婦人が、「あのてっぺんに登れば井戸が一つありますが、その井戸の横に粗末な家が一つあります。その家に青年たちが住んでいるようです」と教えてくれましてた。坂道をずっと登っていくと、なるほど井戸が一つ現れました。鍋で汲み上げる泉のような井戸でした。井戸で手を洗っていたらきれいな一人のおばさんが水を汲むために井戸に出て来ました。歳は五十数歳ぐらいに見えますが、肌がきれいでしとやかな方でした。避難時代でしたからカーキ色のチマをはいていましたが、とても気品があるように見えました。


それでそのおばさんに、「この近くに青年たちが自炊している家があるということですが、もしかしてどこか知っていますか?」と言葉をかけました。そうしたらそのおばさんが、「あなたはどこの会社に通っていますか?」と聞きました。おそらく私の服の身なりを見て、ある会社に通う会社員と思ったようです。私はひざ下のスカートをはいて、男物のような靴を履き、聖書と賛美歌を脇に挟んでいました。


私は笑いながら、「違います。私はイエスを信じる者です」と答えました。そのころ私はイエス様を愛し、心からイエス様を伝えたくて誰に会っても、「私はイエスを信じる者」と言っていました。それほどイエス様を愛していたからです。


そうすると、そのおばさんは私の顔を再びまじまじと見て、「ああ、それなら私の家に入りましょう。」と言いました。「家はどこですか?」と聞くと、「これがその家です。」と言いながら、すぐ横の家に案内してくれました。その方がすなわち、玉世賢(オク・セヒョン)オモニでした。


左が玉世賢先生、右が姜賢實先生( 北鶴洞にあった最初の本部教会 )


その家は井戸のすぐ横にありました。土と石でこねて積み上げた家でしたが、粗野に見えました。人の手で土と石を混ぜて作った家なので、壁がなめらかでなく、でこぼこでひどく見えました。屋根は戦争中で米軍部隊で使う食料箱を広げて覆(おお)っておいたものでした。食料箱は雨が降っても漏れないので、屋根を覆っておくにはよかったようです。避難民たちがそんな家を建てていたのを見ることはあったのですが、そのように小さくみすぼらしい家は初めて見ました。田舎で塀(へい)を作るとき、土と石をおおざっぱに積みあげるのですが、ちょうどそれと似ていました。



中に入って見ると、たたみ二畳もないほどの狭い部屋でした。 入り口は、背の高い人だとかがんで入らなければならないほど低いものでした。壁には紙や新聞紙も貼ってなく、土塀そのままでした。天井は雨が漏ったのか、ところどころ染みがついていて、床は黒いビニールの切れ端が敷いてありました。それはちょうど、どこかの村の馬屋のようでした。その日はまた、雨が降った後だったので、部屋の中のようすがよりうっとうしいものみたく目に入ってきました。


部屋に入ってまず祈祷をして目を開けたとたん、「ああ、一体こんな家でも人が住めるんだなあ。」という思いが自然に湧いてきました。部屋の中には生活道具が一つもなく、服が一着掛かっていました。洋服でしたが、その家や部屋には似合わないほど良い服に見えました。後で知りましたが、その洋服は嚴德紋(オムドンムン)先生がお父さまに贈り物として捧げたものでした。


そして部屋の片隅には丸い食卓が一つありましたが、その上には鉛筆立てに短くなった鉛筆がたくさんさしてありました。生活道具もない部屋に鉛筆がたくさんさしてあるのを見て、私は心の中でおかしいなと思いました。「この家には小学生が多いのだろうか?なぜ鉛筆がこんなにたくさんさしてあるのか?」と思いました。金元弼(キムウォンピル)先生が絵を描くとき、線を引くために鉛筆がたくさん削ってあったものだと後から聞きました。


私はそのときまで、こんなにもみすぼらしい家と部屋を想像してみたこともありませんでした。ふと、「人がこの地上に生まれて、このような家で一生を生きたらどんなに多くの恨みが残るだろうか?」という思いになりました。


今も私は、その瞬間が思い出されるときがあります。再臨主として来られたお父様が、たたみ二畳にもならない狭い家で人類救援の役事を始められたということを考えると、お父様がどれほどひどい生活をされていたのか申し訳ない思いになります。昔、日本でだれかが証しをしながら、「この世に人が地上に生まれて、このような家で一生を生きて死ぬならどれほど多くの恨みが残るか?」と言った私の言葉が何度も胸に鳴り響くという話をしたと聞きました。


そのように苦しい状況で出発されたお父様がメシアであり、救世主であり、勝利された天地人真の父母様であり、万王の王として定着されるまでどれほど言い表すことのできない難しい路程を歩んで来られたかを考えれば、熱い涙が出てきもします。その家は台所もなく家の外でご飯を炊かなければなりませんでした。その上、雨が降れば部屋の中でご飯を作らなければなりません。それではどうしようもないので、後になり外にテントを張って炊事をするようにはなりました。


そんな家でしたが、お父様はその家を自分の手で建てられてどれほど幸福であったか忘れられないと言われました。お父様が釜山に避難をして家なく暮らしながら、多くの苦労をしたと言われました。日が暮れても帰って休むところがなく、どれほどつらい思いをされたでしょうか?それでボンネッコルに家を一つ建てることにされました。しかし、少し積み上げたら雨が降って崩れ、また少し積み上げて置くと雨が降ってまた崩れるということを三度もしたというのです。


真のお父様はその一つの部屋を作りながら多くの考えをされました。間違った歴史を正しく立てる復帰歴史に、神様がどれほど大きな期待をもっておられるかをご存知なので、エデンの園で失われた真の血統を新しく取り戻そうとされる神様の心情を感じ、興奮した心を持たれ、新しい歴史を取り戻す所望(しょもう)でいっぱいに満ちておられたのです。


やっと家が完成した日、壁も乾いていなかったのですが、入って横になったらこの上なく幸福だったと言われました。大理石で美しく建てた家ではなく、二坪にもならない土塀の家ですが、古代官室の王宮よりも価値有る美しい部屋一つの、足を伸ばして横になれる家があるということがどれほど良かったか忘れられないと言われた話を聞いたことがあります。


私はそのとき、その部屋の中に入って、「こういう家で一生を暮らしたらどれほど恨みがたくさん残るか?」と思っている矢先に、ある青年が入って来ました。カーキ色の韓国服のバジをはき、上には古い褐色のジャンパーを着ていて上下が合っていませんでした。靴下は分厚い米軍用のものを履いていて、バジのすそのひもを結ばないで、すそをまくりあげた姿でした。その青年がすなわちお父様でした。


お父様は部屋に入って来て私を見られると、「どこから来たのか?」と尋ねられました。それで私は、「下のほうに凡川(ボムチョン)教会があるでしょう?私はそこで女性伝道師として仕事をしています。」と答えました。


そうするとお父様は、「ああ、この部屋は冷たいですね。」と言われ、星の模様が描かれた緑色の布団を広げられて、「この上に座りなさい。部屋が冷たいから」と勧められました。私は、「ここで大丈夫です。」と遠慮しました。しかしお父様は部屋が冷たいからと、しきりに布団の上に上がって座るように勧められました。何度も勧められるので、仕方なくその上に座ると、お父様は、「今日は5月10日ですが、本当に意義深い良い日に来られました。」と言われました。私は心の中で、「今日は何の日であんなに今日は良い日だと言うのか?」とじっと考えてみましたが、何も思い当たるものはありませんでした。


そのとき、お父様は、「私が以北(北朝鮮)から以南(韓国)に避難して来ましたが、この家で貴重な本を書き始めました。しかし、今日はその本書きを終えた日です。」と語られました。そうして、「今日本書きを終えて、今から私が伝道しなければならないと心に決めて、山に登って祈祷をして下りてきたところです。」と言われたのでした。


後で聞いたことですが、お父様はその日、山に登って、「神様、私と約束されたことは、多くの人たちがこの貴い原理のみ言葉の下(もと)に集まるということでした。原理を中心とした一つの世界、善の世界、愛の世界、父の世界をこの地の上に成されると約束されました。しかし、以北から南に下って来て、まだ一人の生命も探し求めることができません。神様、私は人が恋しいのです。恋しい人の中でも、イエス様をよく信じる聖徒、正しく信じる聖徒が恋しいのです。神様、イエス様をよく信じる聖徒を送って下さい。」と祈祷をして下りて来たと言われました。しかし、招待もしていない既成教会の女性伝道師が部屋に入って待っていたので、どれほど喜ばれたでしょうか?お父様の龍顔(王の顔)には喜びの色がいっぱい満ちていました。


お父様は、座っている私に、「七年前から神様は姜(カン)伝道師を大変愛されました。」とただ一言言われました。私は大変驚いて顔を上げて青年を再び見つめました。「えっ?この青年は七年前私に会ったこともないのに、一体どこで私を見たと、七年前に神様が私を大変愛したなどという話をするのか?」という思いがわいたからです。


そうして、「七年前にどんな事があったかな?」とじっと考えてみました。振り返ってみると、七年前に韓国が解放(=終戦)を迎えながら、私はすべての人生を神様の御旨と福音事業のために捧げなければならないという決意をして本格的に出発したのでした。「神様の御旨のために一生を生きようと決心した七年前から神様が私を大変愛された。この青年は本当に、何かがわかる人だな」という思いになりました。


お父様はそれから楽な姿勢で座られ、話を始められました。しかし、原理講義を序論、創造原理、堕落論、終末論、復活論、予定論、基督論、復帰原理、再臨論という順序ではなく、結論である再臨論から話されました。まずお父様は紙を小さくいろいろな形に破り、はじめに小さい紙の切れ端に再臨論と書かれ、他の紙切れに各々イエス、アダム、エバと書かれました。そうしてみ言葉を語られながら、イエス様の話をするときは、イエスと書いた紙を前に置いてお話しされ、アダムの話をするときには、アダムと書いた紙を前に置いてお話しされました。


しかし私は講義を聞きながらも精神を集中することができませんでした。なぜなら、お父様は静かにただ座って講義をされるのではなく、紙を上げたり下ろしたりされながら、体で動作をしながら講義をされたからです。そしてどれくらい声が大きいか、私の鼓膜が破れるほどでした。「私はまだ若くて耳も遠くないのに、何のためにこの青年はこんなに大きな声で話すのか?」という思いになりました。


お父様は、「イエス様が雲に乗って来られると信じていますか?」と余りにも大きな声で質問をされました。それで、「私は聖書の言葉を信じます。聖書に記録されたことは神様のみ言葉であるので、一点一画も加えてもならず減じてもならないとあります。それで私は聖書に記録されたそのままを信じます。」と答えました。


するとお父様は、「雲に乗っては来ません」と言われました。
お父様は、御自分の読んでおられた聖書を開かれながら説明を始めました。その聖書をどれほど熱心に読まれたのか、赤い線でぎっしり埋まっていました。「イエス様は雲に乗って来られるのではありません。イエス様はエリヤが洗礼ヨハネとして来たのと同じように、肉身をもって来られます。」と話を続けられました。私は初めて聞く話なので理解できませんでした。「もしイエス様が人として来られるならば、同じ人間なのにどうして再臨されたイエス様だと信じられますか?」と反問したりもしました。お父様は熱っぽく私の疑問に答えて下さいました。


そして、「肉身をもって来られるならどこに足をつけられると思いますか?」と再び質問されました。イエス様が雲に乗って来られるのではなく、人として来られるが、韓国に来られると言われました。それで私は、「この世に国も多いのに、どうしてよりによって廃墟になった韓国の地にイエス様が来られますか?」と反問をしました。すると、「1950年に北韓上空にイエス様の顔の姿が現れたという話を聞きませんでしたか?」と言われたのです。もちろん、私もその話を聞いたことがあります。それで、「覚えています」と言いました。すると、「それがみんな意味があるのです。北韓上空になぜイエス様の顔の姿が現れるのでしょうか?みんな意味があるのです。」と話されました。


しかし、その質問に答えられる声がどれほど大きかったことか、私は集中することができませんでした。お父様がどれほど熱心にお話をされるかというと、話が絶頂に達すると山がゴーゴーと鳴り響くようにみ言葉を語られるのでした。「アイゴー、今日は静かに家に帰ることができず、何か事件に遭うのではないか?」という思いまでしました。


お父様は余りにも大きい声でみ言葉を語られながら体でも表現されるので、私は壁に背をあててできるだけ離れて座ろうとしました。しかし、お父様はみ言葉に酔い、ポンポンと飛びながら私の前まで迫って来て語られたりもしました。私は嫌気が差し、自分でも知らずにいらだつ表情になりました。小さな部屋に私一人をおいて踊ったり演劇するように話されるので、どうしたら良いかわかりませんでした。お父様は私のすぐ前にまで来られて話され、後ろに下がったかと思うと、またぱっと飛んで来るようにされながら、全身でみ言葉を語られました。


私はみ言葉を聞くどころか、お父様の表情と声、身振りに驚き、気が抜けてしまうようでした。そのとき、お父様は私一人を置いてみ言葉を語られたのではなく、全人類にみ言葉を伝えようとされたのだと、私は後で悟りました。全人類を生かして人類の生命を救援されることがお父様の使命であられるので、たとえお父様の目の前には私一人が座っていたとしても、お父様は全人類のすべての霊がその場に座っているものと考えられたのです。全世界人類の生命に向かってそのように大きな声で熱情を尽くしてみ言葉を語られたのでした。


それほど、その日お父様は死生決断をしながら大きな戦いをする人のように、生きるか死ぬかというそういう岐路に立ちみ言葉を語って下さりながら、「そうなるはずだ、そうであるだろう。そうなるようになっている。」というような言葉をたくさん使われました。そうしてお父様は、「これはこうです。あれはこうです」と結論を正確にお話しされるので、誰であっても聞けば頭を下げざるをえない信念と熱情があふれておられました。


み言葉を聞きながら、「本当にたいした方だなあ!という考えになり、お父様を見つめました。そうして見つめてみると、お父様の瞳がきらきら光っていました。「おかしい。この青年の瞳がきらきら光っている。光彩が出ている。」と思い、もしかして私の目に異常が起きたのではないかと思い、目をこすって再びお父様を見つめました。再び目を開けて見てもお父様の目には依然と曙光(しょこう)が照っていました。


それで、「どうしてこの青年の目に曙光が照っているのか?」と考えながらみ言葉を聞いていたのですが、お父様は、「今日はここまでにしましょう。」と言われました。そのとき、七時を少し越えていました。私が四時を少し過ぎてお父様のみ言葉を聴き始めたのですが、七時を越えたということは三時間み言葉を語られたことになります。初めて会った人に三時間も話すということは易しいことではありません。私もまた相当につらかったので、お父様が今日は終わりましょうと言われたとき、すっと立ち上がりました。「ああ、良かった。」と思いながら帰ろうと立ち上がったのですが、お父様は、「食べる物は何もないけど、食事をいっしょにして行きなさい。」と言われたのです。それで私は、「いいえ。私の家はすぐこの下にあるので、なぜ食事をして帰りますか。今日はこれで帰らなければなりません」と遠慮しました。


それでもお父様は、今日夕食は必ずここで食べて行かなければ、と何度も言われたのです。韓國語の「꼭(コク)」を日本語で「必ず」と言いますが、お父様は、「カナラズ」という日本語まで使われながら、「今日必ず、どうしてもここで食事をして行かなければならない。」と何度も言われるので、突然あきらめの気持ちになました。「꼭(コク)」というお父さまの言葉に深い情を感じ魅了されて結局食事をすることになりました。


当時は戦争中でもあり、みんな困難な生活をしていた時代でした。それで食膳を見ると、とてもみすぼらしい食事でした。玉世賢(オク・セヒョン)オモニが作ってきたのですが、松の木で作られた食卓に、へこんだ鍋の器に入れられたまっくろな麦ご飯が出されました。おかずも酸っぱくなったキムチに焼き豆腐何切れかが全部でした。そういう食事を前に置いて座っても、お父様の顔には喜びの色がいっぱいでした。私といっしょに食事を召し上がることが喜ばしいご様子でした。後で、お父様は何度も、「あのとき、私が一番寂しい時であった。最も孤独で寂しかった時だったので、神様が姜賢實(カンヒョンシル)を送ってくださったのである。」とお話しされました。


お父様は私に食事の祈祷をしなさいと言われました。私は、「え、私は祈祷しません。」と言葉を返しました。その日、三時間もみ言葉を聞きながら、お父様が余りにも強く力の限りに、大声で叱るように語られたので、自分でも知らないうちに力が抜けていたからです。私は26年間信仰生活をして来たので、どこででも自信に満ちた代表祈祷をしましたが、その日はまったく勇気が出ませんでした。「私は祈祷できません」と二度お断りすると、お父様が祈祷をされました。


お父様は泣かれながら祈祷されました。声が詰まり、しばらく途絶えて再び続けて祈祷されるのですが、骨肉から湧き出る心情に染みた祈祷でありました。「神様の御旨を私が成して差し上げるために今までこの道を歩んで来ましたが、私より神様がもっと苦労をされたことを知っております。神様の御旨を私が成して差し上げます。神様のその多く残された恨(ハン)を私が必ず解いて差し上げます。この地の上に神様の国と世界を私が探し建てて差し上げます。そうして神様を安息させ喜ばせて差し上げる私自身に必ずなりますので、神様、私を見られ慰労を受けて下さいませ。」


その祈祷の内容を聞いて、私は本当にびっくり驚きました。私も一日に三時間以上祈祷をしていましたが、私の祈祷とは次元がまったく違う祈祷であったからです。私は祈祷をするごとに、「病気になった者の病気が治り、試練に遭った者に試練に勝つことができるよう力を下さいませ。そして弱い者には勇気を下さいませ。」というように、一様に神様に何かをして下さいという祈祷をしていました。


しかし、「この先生は神様の悲しくつらい事情を言いながら、神様の恨(ハン)を解いて差し上げ、神様の所願(しょもう)を成して差し上げると祈祷をするのか!」という、そこに深い感動を受けました。私はそのときまで一度もそのような祈祷をしたことがなかったので、良心の呵責を感じもしました。


その祈祷の内容を聞くと、「ああ、ここに何かあるな!」という大きな悟りを受けました。その日、夕食をしないでそのまま家に帰っていたとしたら、おそらく私は統一教会の食口になっていなかったでしょう。その祈祷の内容を聞き、夕食を食べてから私が変わりました。


「私は不孝娘のごとく神様に頼って私のものを満たそうとしたのに、この青年は自身のものを差し上げながら神様に侍り、安らかにして差し上げようとするのだなあ。」という反省の思いになりました。そういう思いになるや、涙があふれました。私がすすり泣いていると、お父様は、「今日この幼い娘がここを訪ねて来ました。神様、どんな御心があられるのか本人はわかりませんが、この娘をして神様の真の御心を知り、感じ、行うことができるようにして下さいませ。」とむせび泣かれました。


そのようにむせび泣かれ、ときには声が詰まり祈祷を続けることができずに、じっとされた後に、再び祈祷をされ、またしゃくり上げながら祈祷をされました。その姿には形式もなく、飾り気もなく真の心だけがありました。その祈祷に私は大きな恩恵を受けたのです。


その祈祷を聞きながら私は、「ここには、神様が共におられる」ということを大変感じました。声を詰まらせ、ひくひくとしゃくり上げながら真実なる祈祷をされるその姿には何事も混ざらない真実、神様が安らかになられるように侍って差し上げる、孝子の心情を感じることができました。「私はこれまでイエス様を信じて来はしたが、間違って信じて来たんだな!」と感じました。私は毎日欲心だけを出して、神様に要求だけして生きてきたのだな。「神様、私を天堂でも良いところに送って下さい。イエス様に誰よりもまずはじめに会わせて下さい。」という祈祷を捧げる不孝をしました。


私が動機となり、欲心が中心になり、私を中心として信仰したことを悟りながら悔い改めの涙がとめどなく流れました。この世の父母も、自分のところに来て何かくれといってもらっていく子供よりも、服一着でも食べ物一つでも持って来てくれる子供が貴く愛らしいでしょう。つくづく考えてみると、神様は私よりこの青年をより愛しておられるだろうという思いになりました。そして、私の祈祷よりは青年の祈祷をもっとよく聞いて下さるだろうという考えにもなりました。


そういう感動の祈祷が終わった後に夕食を取りました。お父様は食事をおいしそうに召し上がりました。その日私は聞きたいことはたくさんありましたが、質問らしい質問はできませんでした。お父様が強く一方的に質問され、お話しされたので、質問をするすきもなく、口に出すこともできなかったからです。


「今日、こんなに三時間も話をして下さったのですが、お話はまだあるのですか? それとも終わったのですか?」とお聞きすると、「本当は私がですね、話をして聞けば、数日夜を通して話しても継続して新しい話ができるほどの内容があります」と答えられました。私は心の中で、「この青年は途方も無い大きな話のふろしきを持っているな。聖書についての新しい話をいくらでもすることができるとは大したものだ!」という思いになりました。


「ええっ?そんなにお話がたくさんおありなのですか?」と言うと、「この家は外から見たらみすぼらしいでしょう?そうではあるけれど、いつでも門は開かれていて人を待っています。」と言われました。それで私が、「また誰を待っておられるのですか?」と聞くと、「この地上には、人生の根本問題と宇宙の根本問題を解決できなくて彷徨(ほうこう)する人がどれほど多いかわかりません。その人たちに私は新しい天の知らせを伝えてあげるために、いつでも門を開いて人を待っています。」と言われました。


その日、別れるとき、お父様は、「姜伝道師。次にまた来て話を聞くことを願います。」と言われたので、「時間があれば来ます」と答えました。すると、お父様は断固とした語調で、「時間はいつもありません。時間は作らなければなりません。」と言われました。


あいさつをして別れて歩き出したのですが、後ろから足音が聞こえます。振り返って見ると、お父様が私の後について来ておられたのです。私は、「あいさつまでしたのに、またなぜ私について来るのか?本当に変だな!」と思いました。


そのように思いながら私の家の前に到着しました。私が後ろを振り返って、「ここが私の家です」と申し上げると、「また来て話を聞いて下さい」と言われました。さっき別れるときとまた同じ言葉を言われるので、「時間ができたら行きます」とだけ申し上げました。私の答えを聞いたお父様はまた、「時間ができて来るのではなく、作らなければならないのです」と言われました。結局私が、「それでは時間を作ってみます」と答えました。


私の答えを聞いたお父様は少年のようなほほ笑みを浮かべられ家に帰られました。お父様はそのとき、人の生命を探し求めるために御自分の立場や体面、威信のようなものは一つも考えられないのだなということを感じることができました。お父様の威信や体面を考えれば、若い女性の後をついて来ることなどできないでしょう。しかし復帰の道で一つの生命を救わなければならないという切迫した心情を持っておられるので、私の後をついて来て、「もう一度話を聞きに行きます」という答えを聞いてから御自分の家に帰られることができたのでした。


その日のお父様のほほ笑みは今も私の心の中に残っています。人が恋しく人が来ることを待っておられて、やっと会えたその嬉しさと喜びがお父様のお顔にそのまま出ていたからです。



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