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2015年7月26日「魂の成長 」22日 奥深い信仰 19日「神様と共に深い信仰の世界へ行きましょう」 

2015年7月26日「魂の成長」文亨進師 説教(英語)日本語訳
魂の成長
奥深い信仰
「神様と共に深い信仰の世界へ行きましょう」

魂の成長   Spiritual Growing      2015/7/26


ヨハネ15章

15:1わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。 15:2わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。 15:3あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。 15:4わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。 15:5わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。 15:6人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。 15:7あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。 15:8あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。



私たちがどのようにして清められるのかこの聖句には書かれています。またイエス様は「私につながっていなさい」とくりかえし述べておられます。10回、「つながる」という言葉が実際繰り返されて、一貫して「私につながっていなさい」というメッセージを伝えています。私たちはキリストにつながっている時、清められることはもちろん、真理と力を得ることができます。この考え方はアメリカの建国の基礎にもあったものです。

この間インド系アメリカ人デニッシュ・デスーザ(Dinesh D'Souza:哲学者、ジャーナリスト)とビル・エヤ―(Bill Ayers:コロンビア大学教授)の討論をたまたま見たのですが、素晴らし討論でした。「アメリカとは何か」というテーマで、アメリカは偉大な国か否かについての討論です。

ビル・エヤーは大きな政府で基本的には共産主義的に通じる、中央に権威を集めた大きな政府を擁護していました。それに対してデス―ザは「私はムンバイ(インド)で生まれた。私たちは確かに口では様々な文化をそれぞれ素晴らしいということもできる。しかし私がまだインドにいた時、アメリカからエール大学の学生が社会学的調査のためにやって来たことがあるすが、インドの子供たちはそのアメリカの大学生たちに群がって「このジーンズ売って下さい」「このカメラ下さい」と言います。学生が「インドにも素晴らしい文化があるのだからアメリカ文化を押しつけたくない・・」といってもかまわず「そのジーンズ売って下さい」と言う、というのです。

デスーザは、アメリカは史上初めて国が豊かになるパターンを変えた国だと主張します。過去にはある国が帝国となり他国を征服し搾取することで豊かになった。しかしアメリカがつくりだしたシステムはカースト制によらず、すべての国民に自由を与え、革新と価値を生み出す自由を保護した。これによって人類史上初めてアメリカは他国の犠牲にもとづくことなく豊かになった。

討論はアメリカの聖書的価値観を巡る話になりました。この国の基礎は何かということです。すべての人が創造主と関係を結び、神様から固有の権利を与えられている。決してそれは中央政府が恣意的に与えるものではない。権力に与えられるものではなく神様から与えられたものである。問題は現在のアメリカがその建国精神からいかに離れてしまったのかということにあります。時代に応じて憲法も修正を重ねてきましたが、建国の父達が自由の国をつくるために設定した原理は変わることはありません。これに対しビル・エヤーは「アメリカは原住インディアンを90%殺した・・」などとお決まりのセリフを並べますが、これらに対してデスーザは丁寧に反論していきます。この討論をYoutubeにアップしたのでまた観て下さい。


現在このアメリカ的価値が世界に広がっているのを見ることができます。他国を侵略、征服することなく富を平和な形で創出する方法を世界に教えたのです。ブラジル、中国、ロシア、インドも、それぞれが伝統的にもつ身分制度を越えてアメリカ建国の父の設定した自由市場原理を用いています。もちろん彼らのいう「西洋文化」そのものは拒否していますが。中国は過去の王朝のように周辺国を制圧するための軍事力を蓄えながら、他方で西洋の経済システムを導入して富を手に入れる、つまりいいとこ取りをしているというのです。アメリカは歴史上初めて征服に依らず国を豊かにし、国民が豊かになる道を見出した国だとデスーザはいいます。かれはそれでもアメリカに色々不満があるというなら、ムンバイで一度生活してみなさいと言って聴衆を笑わせました。ジーンズとカメラが恋しくなるでしょう。


今、アメリカは建国精神を失い、他国が力を伸ばしています。シュミータ(安息年)の終盤を迎え経済の崩落が加速しています。アメリカは神様から特別な恵みを受けた国ですが、神様から離れ警告を受けるようになりました。私たちが神様の道から離れ去っていることを警告されているのです。1973年以降中絶が合法化され何百万という赤ん坊の命が失われてきました。数週間前には(中絶した赤ん坊の)臓器移植に絡んで、臓器の不正売買が摘発されました。大きな事件となりアメリカの主要メディアも報道を余儀なくされました。驚くべきことに堕落した教会(家庭連合)はこれらの問題に関して一言も対外的に発言しません。かたやキリスト教会は必死に反対意見を発信しています。キリストと共にある真の聖職者は反論しているのです。その例の一つとしてユダヤ人でクリスチャンのブラウン博士の作成したビデオを見てみましょう。

https://www.youtube.com/watch?v=Htcqhdf4WBE


ここに悪魔的な冷酷さを見ます。ビデオに登場する女性は人間の肝臓、中絶により体内で殺された赤ん坊の肝臓を取り出し、その売買の商談をサラダを食べながら話しています。信じられますか。完全に神様から離れてしまいました。こういうことが社会の主流になろうとしています。人の生命に対する完全なまでの無視がみられるのです。自由な社会にあっても体内の子供は守られなければなりません。人間としての権利を認めなければならないのです。

あのとんでもなくリベラルなクリストファー・ヒッチェンズ(Christopher Hitchens、1949年4月13日 - 2011年12月15日)でさえ晩年には科学的根拠に基づいて中絶賛成から反対に回りました。と言うのも胎児は中絶処置が早ければ早いほど(胎児が幼いほど)生存する確率が高まることが分かったからです。無神論者を公言してはばからないヒッチェンズですがこの科学的事実によって中絶反対を主張するようになりました。胎児も人間なのだから自由社会では生きる権利は保護されるべきだと。今や世界中の聖職者たちが連邦最高裁の判断に対して反対の声を上げています。ソドム、ゴモラすら超えたのです。ソドム、ゴモラですら同性婚は文化的風潮として容認されてこそいましたが法制化まではされていなかったといいます。アメリカはソドム、ゴモラを越えて行きました。

先日同性婚は生物学的にも合理的ではないことを示すビデオを見ましたが、それとは別にオーストラリアのジョン・ティーズという牧師が表した著書から見てみます。サタンは幻想を与え騙すことに掛けては彼の右に出る者はいません。中絶に関してはあたかも女性を気遣っているように思わせています。胎内にいる子供が生命をもった人間である事実を巧みに隠し、社会全体を欺いて、大衆文化のなかで、寛容、平等、自由を唱えながら事を進めます。

このオーストラリアの牧師さんは科学的側面から反論します。

* 「同性愛者の平均寿命は正常者よりも24年短い」
* 「ノルウェーでは通常の結婚をした男性の平均寿命は77歳で同性愛者の男性のそれは52歳である」
* 「ノルウェーでは通常の結婚をした女性の平均寿命は81歳で同性愛者の男性のそれは56歳である」
統計から言えることは同性愛は喫煙よりも危険であるということです。キャメロン博士は「同性愛による著しい短命化の事実をみるとき、喫煙習慣以上に同性愛の危険性を学生時代から強く警告しなければならない。同性愛に寛容なカリキュラムをもつ学区は優先順位を再考すべき」と述べています。また「HIVエイズの初期感染者の92%が同性愛者の男性であった」こと、「エイズに感染した同性愛者は1人当たり平均1200人と関係していた」

* 同性愛者は正常者の1000倍エイズに感染する確率が高い。
* 同性愛者が肛門ガンになる確率は正常者の50倍。
* 肛門ガンと同性愛との間に強い関連性が認められる。
* 同性愛者男性の50%がエイズウィルスのキャリアであり、肛門腫瘍を生じやすくそれがガンに転じやすい。
* アメリカ国内の同性愛者は全体の1%だが国内の梅毒患者の50~80%を占める。
* 同性愛者による乱交と麻薬使用は制御不能状態である。
* 同性愛者男性は年平均20人以上と性交渉をもつ。そのうち75%は100人以上。また28%は一生のうち1000人以上と関係したという。
* 貞節はみられず性感染症が急速に拡大する。
* 66%が一年以内に他のパートナーと性関係をもつ。
* 5年以内には90%が浮気をする。
* 健康について言論する権利を圧力団体はヘイト・スピーチだとして抑圧するが、性感染症を拡大する者の「権利」を制限することを認めようとしない。


以上は聖書の観点から述べられたものではなく、医者が国民の保健と健康の立場から述べたものです。私たちはこの種の行為が及ぼす危険について教え広めなければなりません。
また「同性愛は先天的なもので自分ではどうすることも出来ない」という議論をよく聞きます。「生まれつきゲイなのだ」と。こういう意見を聞いた人はいますか。言い古された主張です。
もしこれが人の目の色のような先天性のものならば手の施しようがない、ここで議論は終わります、裁きの対象になり得ません。それは過ちでも意識的な選択でもないのですから。


(資料から)1999年、ウェスタンオンタリオ大学の神経学者ライスとエバースはヘイマーの研究結果を実験で検証中、主張された同性愛者に固有だとされる遺伝子を見つけることができなかった。同様にシカゴ大学のアラン・サンダースを中心とするチームも「同性愛」に結びつく遺伝子は見いだせないと結論付けた。また2005年、国家保健局の研究チームも2人以上の同性愛の子供を持つ146家庭を調査したところX遺伝子マーカーXq28と同性愛の関連性を認めることはできませんでした。


一部の科学者が主張するように同性愛は遺伝子による者だとするならば双子の遺伝子を調べればわかります。二人に共通する遺伝子もしくは遺伝子マーカーが見つかるからです。しかし調査の結果双子の一人が同性愛者(男性)の場合、もう一方が同性愛者(男性)である確率は38%であり、また女性の場合は30%であった。これらを見ても同性愛が遺伝によるものでないことは明らかです。
(資料から)人間の行動は遺伝子に左右されるものではなく、いわゆる「同性愛遺伝子」の存在は幻である事が科学によって明かされている。


この世の君であるサタンは大衆文化を利用して私たちを操作しようと試みます。中絶の問題でも裏では中絶された赤ん坊の心臓や肝臓が闇取引されています。同性愛者の問題にしても遺伝という生物学的な問題ではなく政治的な問題です。


もしわれわれが真実を無視して大衆文化の宣伝文句を信用し続けるならば、文明も法律も永続させることはできません。「真実に敬意を払い、真実に基づいて政策を立てることが価値の中心にならなければならない」「本当の原因は何か」「健康にとってのリスクは何か」「特定の性的指向に特権を与えるため法律を変えることが社会にもたらすリスクは何であるか」これらは重要なことです。私たちは遺伝子を語るのではなく、人生の選択を問題にしています。両親がいる家庭の子供とそうでない子供を比較する各種の統計がありますね。統計的にも男女が家庭を持つ方が社会に安定を与えるという結果が出ています。神様はこの件に関して明確です。「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」(創世記2:23-24)と創世記の御言葉があります。サタンはこの基本的原則をくつがえして混乱をもたらし支配しようとするのです。最高裁のスカリア判事は同性婚を認める判決に際して反対にまわりましたが。彼はシュミータ(安息年)にこのような判決を下しアメリカが一線を越え、神様との契約を捨ててしまったことに対してこう語っています。


「この裁判所を見て下さい。9人の男女からなる裁判官は全員ハーバードおよびエールのロースクール出身者で成功を収めた法律家たちです。4人はニューヨーク市出身、また8人は西海岸または東海岸の州で育っています。その間の広大な地域の出身者は唯一人。この9人の判事の中にただの一人も福音派キリスト教徒はいません(アメリカ人の4分の1は福音派キリスト教徒)。他宗派のプロテスタントも一人もいないのです。9人の判事のうち6人はカトリック教徒で3人はユダヤ人です。どうしてこのような偏ったエリート集団がプロテスタントが多数を占める国民全体を拘束する法律を裁定することができるだろうか。同性婚という政治問題を多数派(プロテスタント)を代表しない党派性の強い9人の判事が決定することは「代表なくして課税なし」の基本原理よりもより根本的な原則を侵すものではないのか。今日の判決(同性婚を認める)は3億2千万のアメリカ人の支配者は最高裁判所の9人の多数決の多数派だと宣言するようなものだ。」
これは内的動揺の現われに過ぎません。繰り返し述べて来たようにお父様の聖和後、あらゆる削除行為、今日の聖句が強調する「キリストにつながれ」というみ言とは反対にお父様から離れました。堕落した教会は離れてしまいました。もはやキリストにつながっていません。


* 天聖経を80%削除
* 天一国国家の変更
* 家庭盟誓の変更
* 聖婚問答の変更
* 一神教からニ神教へ
* 憲法から原理を排除
* 従順な「対象」の位置から離れ自らを神、メシア、独生女と宣言
* お父様の位置を簒奪
* 祝福からお父様の血統を排除


そして韓氏族を前面に出しました。
また祝福式の指輪には韓お母様のサインのみが刻まれています。これらを見ても文字通りお父様を削除したことが分かります。お父様から去り、キリスト、メシア、み言から離れてしまったことが分かります。このことが内的中心摂理に起こった結果、外的世界に変動をもたらしているのです。

箴言4章23節にはこうあります。

「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。 」

この聖句は「心を守れ」と言っています。

ここでいう「心」は根本にある深い心、魂、内なる人、の意味です。それを「油断することなく守れ」といいます。なぜなら、そこから「命の泉」が流れ出すからです。命を中心として起こるあらゆる現象が底にある内なる人の影響を受けるということです。先週、「信じること」と「信仰」について見てきました。「信じること」は5%に責任分担であり、「信仰」は神様の95%として与えられるというものでした。「信仰」の賜物として。私たちは自分自身で「信仰」をつくりだすことはできません、ただ「信じる」ことのみできるのです。神様はその時を見計らって「信仰」を与えて下さいます。それが「信仰」の始まりでした。神様から始るのです。同様に、魂が夜の闇の中をさまよう時、「神様私はなぜ今、暗い谷にいるのですか」と尋ねます。「私はここでどう振舞えばいいですか」ではなく「神様あなたは何をしておられるのですか、どうしてここに導かれたのですか」と尋ねます。アビラの聖テレサは「魂が夜の闇をさまよう時に(心の)草刈りをしてはならない」といいました。なぜなら深い内に潜む魂、内なる人を私たち自身もよく知らないからです。聖テレサは「夜の闇の中にいる時は忍耐して庭師を招き入れなさい。そして良き種を植えることができるように、草の刈り方を習いなさい」といいました。シュミータ(安息年)を迎え、迫害と様々な問題を抱える私たちにとってこのことは重要です。私たちは神様の権威の圏内に人々を導こうとしています。例えば下水道の中には様々な泥が流れているが、その上部は舗装されていて上から見えない状況を想像して見て下さい。私たちも表面上は問題ありませんが、庭師(神様)に導かれて奥の方に行く時自分も想像しないような光景を見ます。神様が私たちの内にある泥水の流れを見せて下さるのです。


神学には「意識神学」対「無意識神学」という考え方があります。「意識神学」では、表面的には「神様は全権を所有しており、玉座について主権者として私を見守っていて下さる」ことを当然のこことして認める一方で、「無意識神学」では心の奥深く尋ねて行くならそこには「不安」があるというのです。不安に溢れているのです。

表面的には「神様は主権者である、神様は力強い、玉座について私を導いて下さる!」と叫んでいても深層には泥水が流れている。魂の夜の闇の中、神様は私たちをその泥水のある場所に導かれるのです。そしてそこで何かを学ばせようとなさるのです。そこで何を学ぶのでしょうか。自分自身の事に限られる訳ではありません。


これは泥炭地の写真です。
こちらに草原がありますね。おそらくここが最も危険な場所です。なぜならここを歩いていると突然穴に落ちるように沈み込んでしまうことがあります。これは死につながります。ある有名なランナーがこのような場所で死んだことがありました。堅い足場だと思ったところが急に沈みこむように落ち込み、彼の上を蓋をするように泥が覆ったというのです。表面は堅い足場のように見えますが、そうではなく1枚皮を剥ぐと、すぐ下は危険なことになっている。そしてそこには0度近い冷水が流れている。沼地で探検する指導員がそこに飛び込むのを見たことがあります。もしもの時に抜け出す方法を教えるためです。下はとても冷たい水で飛び込んだ指導員も冷水のショックでガタガタ震えていました。もし普通に落ちたとするなら冷水のショックと上を塞がれることで生き延びるための時間は1分しか残されていないでしょう。


問題は「無意識神学」においていかに魂を成長させるかです。知識を詰め込むだけでは十分ではありません。霊感であっても十分ではないのです。結局最後には神様との具体的な関わり合い、関係にたどり着かなければなりません。これが最も重要なことです。知識や霊感も役に立ちますが究極的には「神様との関係」です。ローマ人への手紙8章を見てみましょう。

26御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。 27そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。


私たちは神様に祈ると言いますが、神様が私たちのためにいつも祈って下さっていることを知っていましたか。聖霊が私を牧会しているのです。魂の成長、霊の成長過程では多くの条件を立てること、様々な宗教的修行を行う事に精誠を投入することも役に立つでしょう。しかしそれが成長のためのすべてではないのです。「信じること」と「信仰」の違いと同じです。


成長するため食物に気を配り、栄養にも気を使い適度に運動もする、こうして健康になる。霊的成長も同じように考えているのです。自分が意識して努力して成長する、そうではないのです。聖句では「聖霊が助けて下さる」とあります。原理では蘇生、長成、完成の3段階を学びますが、アダム、エバが長成期に神様との関係に置いて、もっと委ねていたらどうだったろうかと思います。箴言には「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。 」とありました。聖霊が私たちの心の内にあるということです。霊の深いところで私たちを牧会し、とりなしの祈りをしてくれているのです。日常で悩み思うこともすでに深い部分で聖霊が働いてくれているということです。肉体の成長ではどうでしょうか。例えば筋肉を成長させようと思えば、栄養摂取の内容、運動の内容を全て計画し主管します。しかし霊的成長においては話は別です。自分が主管するのではなく神様に主管して頂くのです。神様が私の心を何を見ておられるのか。そこで神様は美しい庭園の香りを楽しんでおられるのか、泥炭地の臭いをかいでおられるのか。そこでどんな音を聞いておられるのか。どんなものに触れておられるのか、ある植物を指してその名称、茎、根の仕組み、葉の様子などよく調べなさいとおっしゃっておられるかも知れません。野外で草を見分けるのは大切です、間違って口にすると命に関わるのです。 


「神様が私の生活に関与してほしい、私を用いて関わって下さるなら人生は有意義なものになるだろう」これは信仰ある人の言葉です。しかし逆に私がキリストの方に関わっていくこと、キリストに関与してもらうのではなく私がキリストの生活に関わっていくことが重要ではありませんか。自分の人生についての見方を根本的に変えるでしょう。


心の奥地を訪ねる時、自分できれいな庭園を造ろうとするか、それとも聖霊を庭園設計士に迎え入れて聖霊にその設計を任せる、それが問題です。私も日本庭園を自分で作りますが、どこに橋を置き、石を置くか、何色の石にするかなどと考えます。庭を造っている時は子どもといえども近づけたくはありません。遊び場ならよいのですが、避難所、休憩所としての庭なら、例えばお父様の休憩所として作るとするならばそうなります。実際、お父様のためにいくつか庭を造りました。


心の庭を造る際、問題になることは誰に設計を任せるかです。自分で設計するのか、それとも神様に設計を委ねるのか。最終的な目的は、私の心に神様をお迎えすることでしょう。神様は「私につながりなさい」とおっしゃるのです。もし神様の住処として造るのなら、神様の好みを最優先するべきではありませんか。魂の夜の闇に導かれる時、神様は私たちを深い場所に導かれます。そこで賜物としての「信仰」を下さいます。そこでどうやって成長しようかと悩む必要はありません。神様という庭師がいらっしゃるのですから。神様に主管してもらいましょう。



岩をここに置きなさいと言われればそこに置くのです。流れをここに作りなさいといえば底に作りましょう。白い石はそこ、黒い石はこことおっしゃるのならその通りにするのです。橋はここに置き、カエデの木をここに植えなさいというのならその通りにしましょう。このように神様と聖霊に委ねることで創り変えられるのです。

2015年7月22日韓国語説教 “奥深い信仰”  堕落した“韓鶴子集団”になってしまいました。
2015년 7월 22일 '심오한 신앙'
 韓氏オモニが神になろうとして、天のお父様が天の父母様となり、本人が神に、女神になろうとした、そのような堕落の行為を見ていきました。そして堕落した憲法からは原理講論も外され、韓氏オモニの根本の位置、対象の位置を外れ、主体として自分が神、メシア、独生女になろうとしているのを私たちは見ました。

 私たちは原理の立場から、お父様を考えて見るときに、善悪を区別するのはとても簡単です。 韓氏族は堕落した血統、サタンの血統です。何故ですか?メシアの血統以外はすべて堕落した血統だからです。メシアは真の血統を持ってきた方です。真の血統、神様の血統を持ってこられた方です。 神との関係で一番重要な儀式である祝福契約式にメシアの名前を消してしまい、堕落したサタンの血統、韓氏の名前を祝福指輪に刻みました。

 このような内容をみれば、堕落した韓氏オモニが完全に“韓鶴子集団”を作ったということに気づきます。堕落した“韓鶴子集団”になってしまいました。
このような話は聞きたくない内容でしょうが事実です。神の息子娘は善悪を分離することを知らないといけません。

2015年7月22日 奥深い信仰



2015年7月22日 奥深い信仰 from TeamAx on Vimeo. 韓国語説教 日本語字幕


食口の皆さん、こんにちは。一週間があっという間ですね。
今日は“奥深い信仰”について礼拝を捧げ勉強してみましょう。


今日の聖書はヘブライ人への手紙11章1節から6節まで
1 さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。
2 昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。
3 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。
4 信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。
5 信仰によって、エノクは死を見ないように天に移された。神がお移しになったので、彼は見えなくなった。彼が移される前に、神に喜ばれた者と、あかしされていたからである。
6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。


今日、私たちはこれに深く入って行きたいと思います。
ヘブライ人への手紙11章1節から6章のところで韓国の聖書では信仰を믿음(ミドゥム/信頼、信じる心)として翻訳しています。聖書の原語ではPistisです。Pistisの内容は믿음(ミドゥム/信頼、信じる心)ではありません。韓国の聖書では間違って翻訳しました。믿음(ミドゥム/信頼、信じる心)ではなく“신앙/信仰”です。


さらに奥深く入っていきましょう。
私たちの統一家の現実を見ると、韓氏オモニが堕落して天使長たちとひとつになることによってすべてのことを変えていったことを見ていくとすべて連結されています。お父様の天聖経を80%まで変えて編集削除しました。そしてお父様が興南刑務所で血を流しながら作られた、血の天一国国歌も変えられました。あのような困難な中でも神様に栄光をお返ししようとする勇士の、素晴らしい神様の息子の愛の歌を変えられました。家庭盟誓も祝福式も変わり、祝福自体も変わりました。今や、偽りの祝福となりました。


韓氏オモニが神になろうとして、天のお父様が天の父母様となり、本人が神に、女神になろうとした、そのような堕落の行為を見ていきました。そして堕落した憲法からは原理講論も外され、韓氏オモニの根本の位置、対象の位置を外れ、主体として自分が神、メシア、独生女になろうとしているのを私たちは見ました。そして 韓氏族の血統をメシアの血統として、メシアの上にもちあげました。そのようにして皆さんがご覧になっているように3年前に、そして今年もお父様の席に座りました。対象が主体だと錯覚する韓氏オモニとなりました。


完全にお父様が去ってしまった韓氏オモニ。お父様の玉座に座る堕落した行為を私たちは見ることができます。また、ここに(写真を見ながら)偽りの詐欺師たちが何も言わずに拍手だけしています。


(指輪の写真を見ながら)私たちもこれをよく知らなかったのですが、ある食口が、自分の祝福式の指輪だと見せてくれながら、偽りの失敗の基元節に作られた祝福指輪、これは神様の祝福の契約を象徴する指輪、私たちが神様と永遠の関係を結ぶ指輪、2013年堕落した失敗した基元節に指輪を作ったのですが、これには再臨主、メシアであるお父様の“文鮮明”の名前も削除してしまいました。この指輪には韓鶴子、 韓氏オモニの名前だけ刻まれています。このような内容を見ながらも多くの人たちは詐欺師たちの話だけ聞いて愚かに陥ってしまいました。


しかし、私たちは原理の立場から、お父様を考えて見るときに、善悪を区別するのはとても簡単です。 韓氏族は堕落した血統、サタンの血統です。何故ですか?メシアの血統以外はすべて堕落した血統だからです。メシアは真の血統を持ってきた方です。真の血統、神様の血統を持ってこられた方です。 神との関係で一番重要な儀式である祝福契約式にメシアの名前を消してしまい、堕落したサタンの血統、韓氏の名前を祝福指輪に刻みました。


愚かな人たちは何の考えもなくその指輪をはめて、何故ずっと運が悪くなっていくのかを知りません。何故ずっと滅びていっているのか知りません。堕落した血統と堕落した祝福契約のためにそうなっているのです。


私たちはお父様に帰っていかなければ地獄に行きます。地獄とは何ですか?
神様と分離された生き方をすることです。何故?霊界に行けば神様の愛が空気だから。私たちは神様なしでは呼吸することができないようなものです。ですから霊界、永遠の人生では神様と分離されて生きるので空気がないのと同じような人生を送るのです。それは地獄でしょう。すさまじい苦痛の人生です。


そのような詐欺師たちの偽りの内容を聞きながら、食口たちが幼稚園児のように愚かになってしまいました。善悪を分離できないほどに愚かに陥ってしまいました。
しかし、真の父母様の後継者、代身者が私の責任なので 心苦しくとも勇気を持って善悪分離することで、食口たちが少しづつ目覚めてきています。


これは私たちの責任です。お父様と分離された生き方をすれば呪われるようになります。地獄に行きます。キリストがいない生き方をすれば空気がないところで生きるような生き方になります。永遠の苦痛です。何故?愛のない人生。友達と親しく生きる人生はあっても、永遠の深い愛はありえません。真の愛。根本の大きな愛に触ることができません。


このような内容をみれば、堕落した韓氏オモニが完全に“韓鶴子集団”を作った
ということに気づきます。堕落した“韓鶴子集団”になってしまいました。
このような話は聞きたくない内容でしょうが事実です。神の息子娘は善悪を分離することを知らないといけません。


(指輪の写真を指しながら)これは一体何ですか?皆さん、韓国語を読めるでしょう?どうして永遠の祝福の契約に、お父様が残されたものを変えただけでなく、堕落したサタンの血統を刻みました。皆さんがはめているサタンの契約の指輪に。ちゃんと考えなさい!考えてみなさい!皆さんの永遠の命をどこに置いていますか?誰の下に?メシアの下に置いているのですか?でなければ堕落したサタンの血統の下に置いているのですか?
 
もうすでに6ヶ月過ぎたでしょう?私が6ヶ月前から話し始めて。
初め、このような内容を話し始めたときは皆、批判したでしょう?しかし皆さんの目の前にある証拠を見ても善悪を分離できていないという事実を思えば、皆さんも堕落した人たちです。あまりにも簡単です。お父様がここにいらっしゃったならば、これを許したでしょうか?


人は神様に対する尊貴と愛がなければ神様を畏れることができません。
ソロモンを考えてみてください。知恵の根本、始点は何ですか?
神様を敬畏すること。恐怖の神ということでなく、神がどれほど偉大な方であられるのか知っていること。そして、もしこの方がいらっしゃらなければ、私がどうして生きていけるだろうか、そのような畏れ。それが知恵です。愚か者から知恵ある者に成長されることを願います。私たちは今、愚かさから抜け出さなければなりません。今はとても明快に見ることができます。お父様の下にまた戻ってこないといけません。


このような内容を見たときに、多くの人たちは『いや、どうしてそのようになれるだろうかか?』『真のお母様がどうして堕落するだろうか?』と尋ねるかもしれません。
ですから私たちは一度、分析してみないといけません。


韓氏オモニが魂の苦悩があった時にどのようにされたのでしょうか?
どのように消化されたのでしょうか?これが本当に重要です。 韓氏オモニの信じることと信仰が揺れたとき、魂の苦悩があった時にどのようにされたのか、信じることと信仰を区分できたのか? どのように越えていかれたのか?この問題を知ることがとても重要です。


辞書を見れば“信仰”に対してどのように出ているでしょうか?
・強く信じること、または何かを強く信頼すること。
・神の存在に対して信ずること。確固たる宗教的な信念。
・体系化した宗教的な信念


信仰について“信仰=信じること、信仰は信じることだ”と私たちは 本来、考えてきました。そうでしょう? 魂の苦悩があった時に私たちはどのように信仰と信じることを区分できるでしょうか?また魂の苦悩があったとき、「神様、私が間違っていましたか?私が何かいけなかったから、このような苦痛の中にいるのでしょうか?」と尋ねるのではないでしょうか?私がよくやったときは神の慰労と賞賛を受けるが、今は自分がいけなかったから魂の苦悩を受けた、そう思うということです。ですから私たちはその答えを探してみないといけません。


信じることと信仰の違いを探して見ましょう。信じることと信仰は同じものでしょうか?皆さんもご存知のようにお父様が日曜礼拝の先生だったときに、カルビンの影響を受けた教会で先生をしたのですが、カルビンは信仰についてどのように説明したでしょうか?


読んでみましょう。
信仰とは“神様が願われる摂理の意思”を信仰者たちが知れるように導いてくれる。
したがって、信仰と“神が願われる摂理の意思”は聖書の言葉と直接的な関連性を持つ。


ですから“神の願われる摂理の意思を知れるようにならないといけません。神の願われる意思を知ることも信仰のひとつだということを発見しました。旧約聖書のギリシャ聖書では信仰(Faith)と信じること(belief)は区分して話します。しかし、韓国聖書では신앙(信仰/Faith)と믿음(信じること/belief)を同じ単語、すなわち、믿음(信じること/belief)として翻訳しました。例をあげると、コリント人への手紙13章では Faith、hope&Loveを믿음(信じること)と希望と愛と翻訳しました。しかし、ギリシャ聖書を基に正しくしようとすればこれは”신앙(信仰)と希望と愛“にならなければなりません。なぜならば、ギリシャ聖書ではFaith((신앙/信仰)という単語をここに使ったからです。


“신앙/信仰”と“믿음/信じること”は厳然たる違いがあります。
韓国の聖書ではいつも“믿음/信じること”を使いますが違います。 Faithを使えばそれは“신앙/信仰”です。“신앙/信仰”と“믿음/信じること”の違いは何か一度調べてみましょう。
信仰とはいつでも神から出てきて受けるものであり、私たちが生み出すのではない。


私たちがひたすら信じれば、信仰すれば神様がこのようにしてくださるだろう、などと考えます。私が信仰を生み出せば、と普通そう考えるでしょう。これは全くの間違いです。ですから葛藤が沸いてきたときに、自分の目の前に、韓氏族の堕落した状況を見ても区分できません。信じることだけしてきましたから。信仰とは何であるか知りませんでしたから。


“믿음/信じること”と“신앙/信仰”の区分は何ですか?
信仰とはいつでも神様からくるのです。信仰とは私たちが生み出すものではありません。もっと易しく言うと、神様を信じることは私たちの5%で責任を持ちます。
信仰はいつでも神様からくるのです。


ローマ人への手紙12章3節を見てみましょう。
私は、自分に与えられた恵みによって、あなた方一人一人に言う。思うべき限度を超えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰のはかりに従って、つつしみ深く思うべきである。


神が各自に分け与えてくださった信仰、私たちが生み出したものではありません。


次にエペソ人への手紙2章8節から9節を見てみましょう。
あなた方の救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなた方から出たものではなく、神の賜物である。


“信仰とはあなた方から出たものではありません。”この言葉がまさに正しく出ていますね。私たちから出てくるものではありません。私たちが一生懸命修行して悟るものではありません。それは、あなた方から出たものではなく、神様からの賜物である。”信じることではありません。信仰です。信仰は神様からの賜物です。 ひとつの知恵でもあります。どんな知恵かというと神様の願われる意思を知る知恵。


信仰という言葉のギリシャ語は「説得すること」という意味です。神様が私たちを説得される必要はありません。しかし、神様は私たちを愛されているので賜物としてくださるキリストを通して私たちを説得されます。信仰は私たちが作るのではなく、神様の願われる意思を賜物として受け取っているものなのです。


これが理解しがたいならば、例をあげると、ここに滝があれば、私たちがこの滝水をつかんで信仰を作るのではなく、手のひらを広げて滝水を受けるものだ。賜物として。私が作るものではなく受け取るものです。
また、信じることはドアをノックすることです。信仰は賜物ですから神様がドアを開け私たちを受け入れてくださることが信仰の賜物です。
大きな違いがあります。信じることが私たちの責任です。5%の責任分担。信仰を受けることは95%の神の賜物を受けることです。このことを深く考えてみないといけません。


チャールズプライスという神学者の信仰と信じることに関してどのように説明しましたか?見てみましょう。
私達は、信仰を観念にしてしまった。しかし信仰とは恵みとして与えられたものである。私たちが信仰を持てる唯一の道は神様が与えてくださった時にだけ可能なのだ。


信仰は私たちの中で生み出すことはできない。信仰は私たちが努力して受けるものではない。私たちが神様との契約を信じているといいながら、それにふさわしい信仰を持たないということは話にならない。忠実に聖書に基盤を置いた信仰は、“なされることを信じる”ではありません。


むしろ、その反対に“すでになされたと信じます”という忠実な心情から出てくる深い自覚です。ただ神様だけがくださることのできるものがまさに信仰です。神様が導こうとされるところへ行くことに抵抗しないでください。皆さんは私たちの信じるということを信仰心と呼ぶ間違いを犯さないでください。主は生きた御言葉であり、私たちを完全なものにしてくださるお方である。   - チャールズプライス 真の信仰


多くの統一教会員を見るときに、自分たちが努力して信仰したものと考えています。そうではないですか?自分を正直に見てみればどうですか?私が努力して信仰生活をした。そう思っているでしょう?でもそれは信仰ではありません。それは믿음(信じること)です。信じることは私たちがやっていかなければならない責任分担ですが、信仰はいつも神様からくるものです。


この内容も一度見てみましょう。
ヘブライ人への手紙11章1節から6節
信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。


信仰がなくては、神様を喜ばせてさしあげられない。信じることで私たちは5%の責任分担を果たしますが、最後に信仰がやってくるのはいつでしょうか?神様と出会ったときです。神様を体験したとき私たちの信じたことが信仰に変わります。賜物に。キリスト出会ってこそ信仰が顕れます。統一教会員たちを見てみても、信じている人たちは多くても、お父様の神霊を直接体験して、その信じたことが信仰に変わっていった人、そのような生き方をしている人たちは数人しかいないでしょう。一生懸命信じて信仰を啓発するのではありません。信じることで神様に出会える位置を備えてください。私たちの5%の責任分担を果たすことによって、神様が私たちに触れるときに、聖霊を降り注いでくださるときに、信じたことが信仰に昇華するようになります。


原理講論の24ページを見てみましょう。
今まで神を信ずる信徒達が罪を犯すことがあったのは、実は、神に対する彼らの信仰が極めて観念的であり、実感を伴うことがなかったからである。
神が存在するということを実感でとらえ、罪を犯せば人間は否応なしに地獄へ引かれていかなければならないという天法を十分に知るなら、そういうところで、誰があえて罪を犯すことができようか。


統一教会員も同じです。信仰が観念的になってしまいました。お父様の聖霊と共に生き、お父様が私たちを導いてくださるならば、聖霊に充満された人生になります。私たちの霊的五感が開かれ霊界と霊通でき、お父様が私たちを用いられて生きていけます。観念ではありません。私がこの内容を信じます、これが信仰ではありません。それはただ信じていることです。信仰とは、お父様に出会い実感して聖霊に充満した人生を生きるときに信仰だということを悟ってくださることを願います。


次に、マタイによる福音書8章5節から10節までを見てみましょう。
さて、イエスがカペナウムに帰ってこられた時、ある百卒長がみもとに来て訴えて言った。「主よ、私の僕が中風でひどく苦しんで、家に寝ています。」イエスは彼に、「私が行って治してあげよう。」と言われた。


そこで百卒長は答えて言った、「主よ、私の屋根の下にあなたをお入れする資格は、私にはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕は治ります。私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵卒がいまして、一人のものに「行け」と言えば行き、他の者に「来い」と言えば来ますし、また、僕に、「これをせよ」と言えば、してくれるのです。」


イエスはこれを聞いて非情に感心され、ついてきた人々に言われた、「よく聞きなさい。イスラエルの人の中にも、これほどの信仰を見たことがない。」 


この内容は何ですか? 百卒長がイエス様を訪ねて行ったとき、イエスに出会えば私の僕は治してもらえると信じて行きました。イエス様に出会ったことで「お越しくださらなくとも、ただ、み言葉をください、そうすれば僕は治ります。」といい、イエス様は「これほどの信仰を見たことがない。」 と言いました。この瞬間で百卒長の信じたことは信仰に変わったのです。キリストに出会うことで信仰に変わったのです。


次にマタイによる福音書9章20節から22節を見てみましょう。


するとその時、12年間も長血をわずらっている女が近寄ってきて、イエスの後ろから衣のふさにさわった。み衣にさわりさえすれば、治していただけるだろう、と心の中で思っていたからである。


イエスは振り向いて、この女を見て言われた、「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」。するとこの女は、その時にいやされた。


お前の5%の믿음(信念)と95%の賜物である神様からくる信仰がお前を治したのだ。皆さんはこの信念と信仰の微妙な違いを知るようになれば、皆さんの人生がまったく変わるものと信じます。


ローマ人への手紙9章を見てみましょう。
では、どういうことになりますか。義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。
しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。
なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行ないによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。
それは、こう書かれているとおりです。「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」


神様がくださった賜物である信仰によらず、自分たちの行い、一生懸命信仰しているから神様は感動しないといけないという傲慢さ。イスラエルはこのために堕落したことを見ることができます。


ガラテヤ人への手紙3章21節から22節を見てみましょう。
では、律法は神の約束と相いれないものなのか。断じてそうではない。もし人を生かす力のある律法が与えられていたとすれば、義は確かに律法によって実現されたであろう。


しかし、約束が、信じる人々にイエスキリストに対する信仰によって与えられる為に、聖書は全ての人を罪の下に閉じ込めたのである。


キリストに対する信仰によって、約束を信じる者たちに与えられるです。信仰を与えようとされるのです。私の努力によって作り上げるものではありません。私が神様を精誠こめてひたすらに追及するようになれば、神様が決定される瞬間、私に触れられたら、その信じたことが信仰の賜物になるのです。


その賜物によって私は絶対信仰、絶対愛、絶対服従できるスタートラインに立てるわけです。ですから私たちは神様に出会わなければなりません。お父様の聖霊に出会わなければなりません。そうすれば私たちの信じたことが信仰に変わっていけます。


私は覚えています。韓氏オモニは、数十年間、偽りの詐欺師たちの話だけ聞いて、お父様が困難なことを与えられるたびに、子供たちに「お父様は何故私にこうするんだろうか」「私がどれほど大変か知っているか?」いつもこのようにされ続けました。


このような習慣をつくったのです。もちろん私たちは何も言いませんでした。これは裏で言われていた内容でしたから。オモニを保護したかったから。数十年間、私たちを育てながら、お父様がオモニを困難な状況に置かれてしたがっていくことが大変なたびに「お父様は、何故これほどまで私を苦しめるのか?」いつもこれでした。
このような文化をつくったから教会に悪い文化ができました。


お父様の一番重要な対象がそのような文化を創れば、それが反復されていったら、お父様を見れば皆が「お父様は悪い人だ、私たちを苦しめる人だ」と考えるしかありません。キリストの夫人、長の責任は困難な時でもいつもキリストを高めなければなりません。お父様は平安とすべてのさまざまな贅沢な環境を与えてくださったのに。


お父様は個人的な用事ではなく、全ての食口たちを生かそうと、一人ひとりを生かそうと12時間20時間とお話されたのですが、(お母様は)あぁ、(お父様は)また約束を守られなかった、私はまた一人で食事して眠らないといけないと考えました。


このように魂の苦悩があるたびに、韓氏オモニがどのような習慣を作ったかというと
「お父様が私を苦しめている」と考える習慣。私を中心として考える習慣。
キリストの夫人、新婦の長の立場でありながら「自分がとても大変だ」と考える文化。ですから真の家庭もそのような偽りの文化を学びました。「あぁ、自分はとても大変だ。苦しい。」という偽りの文化。そして2世たちも幹部たちも偽りの文化を学びました。わかりやすく言えば、内密にお父様を刺して批判している文化。キリストを憎んでいる文化。


ですからメシアが聖和された後に堕落して何の考えもなくついていくようになったのです。信じることと信仰は違うのです。「こんな自分はとても可哀想だ。私をいつも苦しめるから。このように成功したのは、食口たちが従ってくるのは実はお父様のためではない。お父様は悪い人だから。私のためだ。私が苦しくても耐えて耐えて陰で整理するから食口たちが残ってついていくのだ」このように錯覚するようになりました。


「私は可哀想だ、私は可哀想だ、私は可哀想だ」この考えから、 私のゆえに食口たちが私についてきたのだ。このように考えてしまったのです。そのようにしてどうなりますか?サタンの主管になります。そうして、お父様は実は必要ない、事実、私がメシアだった。そのようになったのです。


私たちはこれを見極めることができないといけません。何故なら私たちはこうなってはいけないからです。特に女性たちは!女性たちは韓氏オモニの堕落を見ながら、私はこのような道をついて行ってはいけない、侮辱され永遠に呪われる道だということを悟らなければなりません。


ですから私たちは人生で魂の苦悩が現れるようになります。これは保証します。100%保証します。魂の苦悩が現れるようになります。
皆さん、私たちは可哀想なので来たのではありません。魂の苦悩は皆に来ます。魂の苦悩が訪れたときに、神様に「神様、私は何がいけなくてこのような苦悩の中にいますか?」このような問いかけは正しい質問ではありません。正しい質問は何ですか?
「私が魂の苦悩が来たときに神様はどうされますか?」「神様は私に何を見せたいと思っているのでしょうか?」「何をされようとしているのですか?私は知りたいです。」


アビラのテレサは、有名な修道女だったでしょう。彼女は数百年前にこのように書きました。魂の苦悩がやってきた時は雑草を抜く時ではないと言いました。庭園の中に入って庭師(=イエス様、キリスト)と共に庭園に入っていき、雑草を抜くのではなく、庭師に雑草について学ぶ時間だ。庭師(=主)に雑草について尋ねて見て学び、その後で雑草を抜かないといけないでしょう。 自分で雑草を抜くのではなく、まず主に導かれて私の魂の苦悩の中で私に見えていない雑草を学び分析したら、それを知って抜き取ることができるようになります。


このような魂の苦悩の試練の中で、皆さんは何かやろうとしないでください。
自分の中から信仰を啓発しようとしたらいけません。間違っています。成功しません。魂の苦悩からは出てきません。信仰は作れません。何かを作ろうとしないでください。魂の苦悩の中で、闇夜の中にいるときにその音を聞かないといけません。神様はどのように私を導かれようとしているのか。


たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがたわたしと共におられるからです。詩篇23篇です。


死の丘を歩んでいても、私たちから出てくる信仰を啓発しようとしてはいけません。神様が私たちに何を見せて下さろうとしているいるのか、神様によらないといけません。そうすれば神様が私たちに新しい信仰の賜物をくださる時間になるでしょう。


コリント人へ第二の手紙12章9節には、
「私の力は弱いところに完全にあらわれる。」それだから、キリストの力が私に宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。


私たちは弱いときに能力を強くしようとすれば失敗します。信仰の賜物を受け取れません。私たちが魂の苦悩の中にいる、弱い時に神様が導いてくださることを感じて追求し、神様が聖霊の賜物をくださる時に私たちに触れられたなら。神様が決められた時間にです。私たちは今願われるのに何故神様はくださらないのか?そうではないのです。神様が決められた時間を私たちは待たないといけません。神様が決められた時間に来られたら私たちの信じたことは信仰に変わります。能力が生じます。そして魂の苦悩が一瞬で消え去ります。それで私たちはその丘をひとっ飛びに越えていかなければなりません。


イエスはどのように語られましたか?
からし種程度の信仰があればあなたは山をも動かすことができる能力が生じるだろう。その小さなからし種程度の信仰が山を動かすことができるのか?何故でしょうか?それは私が作ったものではないから。信じることは私がしないといけないことですが、信仰は神様がくださる賜物です。からし種ほどの小さな信仰の賜物でも巨大な山をも動かすことができる驚くべき能力だということに気づいてくださることを願います。


神様は わざと私たちの弱いところを開かれようとします。私たちは現代社会に生きているので、ちょっと何か不便なことがあれば、そこから早く避けたいし、他のところで行きたいと思います。そうでしょう。 Ipedがちょっと不便だとあ~これはだめだだめ。カカオトークもちょっと遅いとあ~ダメダメ。そうでしょう?早く早く早くと。あ~このプログラムは面白くない、他のもの、あ~これも面白くない。他のもの、他のもの、こんなぐあいです。


神様が私たちの弱点を見せてくださる時に、私たちは魂の苦悩があったときに、あ~いやだ。早く過ぎ去ろう。早く解決しようとするでしょう。
しかし、その瞬間にも神様はわざと私たちの弱点をあからさまにされようとするのです。私たちはそこで待たないといけません。とどまっていないといけません。
その弱点を見ないといけません。その弱点を見れば、神様が私たちに啓示を下さる時間になるかもしれません。啓示、感動、信仰の賜物、知恵を下さる時間。
神様の願われる意思を悟れる信仰の賜物を受け取れることでしょう。


天聖経を読みましょう。
私たちが精誠を捧げるときは絶対信仰の位置に入らないといけません。神様と神様の摂理に絶対信仰の位置に入らないといけません。その位置に入ってこそはじめて神様が役事されるのです。(韓国語直訳)


私たちが精誠を捧げるときは絶対信仰の位置に入らないといけません。しかしどのように入って行ったらいいのでしょうか?皆さんの能力で入れません。そうでしょう?私たちの能力では入って行けません。私たちは信じてついていきますが、神様の神霊が私たちに触れたときに入れるようになります。私たちは信じてドアをノックし続ければ神様がドアを開けて受け入れようとされる瞬間があります。ドアを開けて入れと言ってくださる時がきます。そのときに私たちは信仰に入っていけるのです。そのとき、神様は役事されるのです。アージュ


祈祷しましょう


ハナニム・アボジ、アボジ、カムサハムニダ。アボジ、カムサハムニダ!アボジ、カムサハムニダ!今日、私たちに大きな悟りをくださり、私たちは今まで신앙(信仰)でない、믿음(信じること)で生きてきましたが、これからはあなたからの賜物である신앙(信仰)で生きていきたい者たちに生み変えてください。


アボジ・ハナニム、私たちはこれからはあなたが頼ることができる孝子孝女になれることを願います。


アボジ・ハナニム、これからは新しい段階、新しい次元、あなたと共に聖霊が充満した人生を、霊的五感が開かれた人生を歩んで行きたいです。


アボジ、信じる者でなく信仰を受け取れる者になれるように許諾してください。
アボジ・ハナニム、あなたが決められた時間で今や食口一人ひとりが、毎週10名、100名、1000名が目覚め、あなたの元に帰ってきています。


アボジ・ハナニム、しかし魂の苦悩が生じるとき、私たちによらず、私たちの믿음(信じること)によらず、ドアをノックしながら、あなたが決められた時間に、アボジの信仰の賜物を、能力の賜物を許諾してくださるならば、私たちはまたあなたの元に帰り、また天一国基元を始めることができる残った信仰者になれることをはっきりと知っております。


アボジ・ハナニム、私たちを導いてくださり、そして今は去って行った者達の心情に入って行かれ、一人ひとりを目覚めさせてくださる役事を見ながら、感謝と全ての栄光と喜びをあなたにお返ししながら、祝福中心家庭の名前であなたに全ての感謝を捧げながらご報告いたします。アージュ、アージュ、アージュ、


さぁ、立ち上がり隣の方を激励してください。信仰を受け取ってください。アージュ。

2015年7月19日 「神様と共に深い信仰の世界へ行きましょう」 文亨進 ほぼ全訳
2015年7月19日 「神様と共に深い信仰の世界へ行きましょう」 

Deep Faith with God


ヘブル人への手紙11:1-3、6

さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。昔の人たちは、この信仰ゆえに賞賛された。信仰によって、私達は、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現われているものから出てきたのでないことを悟るのである。

信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来るものは、神のいますことと、ご自身を求める者に報いてくださることとを、必ず信じるはずだからである。


今日は神様と共に深い信仰の世界へ行きましょう。この聖句について少し考えて見ましょう。信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。これが今日の礼拝のテーマです。しかし、その前にその背景をお話しましょう。


お母様の指導の下、天聖経は80%変えられ、天一国国歌、家庭盟誓、聖婚問答も変えられました。一神教から二元論に変えられ、天一国憲法から原理講論が除外されました。私は何度も、このことを言ってきました。









そして、お母様ご自身を神やメシヤと呼び、従順な対象の位置を離れました。メシヤの血統以外は全てサタンの血統です。サタンの血統である韓氏族の血統をお母様は神の血統と宣言し、お父様の玉座に座るようになりました。



これらのことを話す時はいつも、私はとてもつらいのです。なぜならお母様は私の母だからです。


2013年の基元節の祝福の時、このようなことが起こっていたとは、私達も知りませんでした。祝福指輪の内側にお母様の名前だけが刻まれているのです。お父様の名前が祝福指輪から消されてしまいました。

祝福指輪はあなたの指にはめられ、神様と共にかわした祝福の永遠の契約を象徴するものです。そこにお母様の名前だけしかないのです。それだけでも、とても信じられないことです。

私達は今このような状況にあります。このような状況が、どのようにして起こったのでしょうか。これは私達にとって、また、私達が次世代の子女を教育していくにおいても、とても重要なことです。

どのようにしてお母様は、魂の闇夜を消化したのでしょうか。信仰者の道や、キリストに向かっていく道には、必ず魂の闇夜があります。それは信仰の路程の一部です。いかにそれに対応するかが、あなたがどのような道を行くかを決定するのです。

では、お母様はどのようにこの「魂の闇夜」に対応されたのでしょうか。信じることとと信仰の違いは何でしょうか。これは私達の信仰生活にとって、とても深刻な質問です。

ウエブスター辞典に載っている「信仰」という言葉の定義をみてみましょう。

1.誰かか何かの中にある強い確信または信頼
2.神の存在に対する確信、強い宗教的感覚または確信
3.宗教的信念の体系

信仰とは何かを確信することですね。私達は皆何かを確信しようと努力します。

私達が魂の闇夜に直面する時、私達は神様に「私は何を間違ったのでしょうか。なぜ私は今魂の闇夜を経験しているのでしょうか。」と尋ねます。

私達が信仰上の問題に直面した時、私達の一般的な反応は「神様、私は何を間違ったのでしょうか。」と問いかけることです。それでは、信じることと信仰の違いは何でしょうか。

カルビンは信仰について次のように述べています。「信仰は私達に神様が願うことを知らせてくれる。したがって、信仰と神様が願っていることは、聖書の中で直接つながっている。」

信仰は単に確信だけではなくある種の知識でもあります。ただ信じることだけではないのです。信仰は神様の願いを私達に知らせてくれるものなのです。信仰を通して私達は神様の願いを理解することができるのです。

それは私達にとって最高の知識です。信仰は神様から受けるもので、私達が生み出すものではありません。このことは私達の心を広げることでしょう。

信仰は神様から受けるものです。それは決して私達が生み出すものではありません。それはとても興味深いことです。

ローマ人への手紙12章3節を見てみましょう。

私は、自分に与えられた恵みによって、あなた方一人一人に言う。思うべき限度を超えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰のはかりに従って、つつしみ深く思うべきである。

言い換えれば、神様は私達一人一人に信仰のはかりを与えているということです。これは、私達が普通信仰と考えていることと180度違う考えです。

次にエペソ人への手紙2章8節から9節を見てみましょう。

あなた方の救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなた方から出たものではなく、神の賜物である。

これが信仰者が陥りやすい問題です。私がこれを信じたから、私が祈祷条件をしたから、また私が断食したから私の信仰は深まっている。私達は私達の信仰を生み出していると考える傾向があります。

このことに対する問題点は、自己満足に陥りやすいことです。信仰は神様からの贈り物なのです。信仰は自分の内部から来るものではなく、外部から来るものなのです。

信仰は神様からの贈り物で、私達に神様の願いを知らせてくれる知識なのです。信仰という言葉のギリシャ語は「説得すること」と言う意味です。これは、私達が私達自身を説得するという意味ではなく、神様が私達を説得するということです。それは神様の意思による知識です。

それは大きな滝の下で、私達が信仰の水をつかもうとしているのではなく、私達が手を広げて、落ちてくる信仰の水の中に入っていくようなものです。そして私達は信仰という神様からの贈り物に感謝するのです。

また、それは誰かがあなたの家のドアをノックするようなものです。信仰とは神様からの贈り物で、あなたがドアを開けて受け入れるものです。これはとても興味深いことですね。

これは、私達が普通考えていた信仰と言う意味から、全く違うものです。私達が、私達は信仰がないと悩のは、それは、信仰が私たち自身の中からくると思っているからです。

しかし、信仰が神様からの贈り物だということがわかれば、あなたの考え方は完全に変わります。

チャールズプライスという神学者の信仰と信じることに関するすばらしい文章を紹介したいと思います。

私達は、信仰は神様から与えられた恵みであるにもかかわらず、私達の心の状態のようにしてしまった。私達は神様が与えてくださった時にだけ信仰を受け取るのである。

あなたは信仰を生み出すことはできない。あなたは約束を信じることはできる。そして同時に、それに適した信仰を持たないこともある。

純粋な聖書的な信仰は、私達の能力によるのではなく、私達の心に与えられた深い神聖な意識によるのである。それは神様だけが与えることのできる信仰で、神様の意思とは矛盾しない。

私達が神様を信じることを信仰と呼ぶのは間違えである。キリストは生きた言葉であり、私達にとって十分なものである。

私達が神様との約束を信じることについて考えて見ましょう。それは私達の祈りなどを通してなされますが、信じることは私達の責任であり、きわめて重要なことです。

しかし、キリストとの個人的な出会いは、彼と彼のみことばとの本当のつながりであり、それは信じることを信仰に格上げするのにいつも必ず必要なことです。

信仰はただ信じることではなくて、それは人間の魂の中に与えられる神様からの贈り物なのです。それは深い意識の中にある、神様との約束はなされるという知識なのです。

もしあなたが、キリストとの個人的な出会いが、彼自身か彼のみことばとの間になければ、それは信仰ではありません。それがなければ、あなたは何かをただ信じているだけなのです。この違いがわかりますか。

信仰が何であるかを理解することはとても重要なことです。原理講論の総序にはどのように書いてあるかを見てみましょう。

今まで神を信ずる信徒達が罪を犯すことがあったのは、実は、神に対する彼らの信仰が極めて観念的であり、実感を伴うことがなかったからである。

神が存在するということを実感でとらえ、罪を犯せば人間は否応なしに地獄へ引かれていかなければならないという天法を十分に知るなら、そういうところで、誰があえて罪を犯すことができようか。

ここにはっきり書かれている通り、神様に対する実感が必要なのです。キリストとの出会いが必要なのです。そうでなければ、あなたはただ信じているだけで、それは信仰ではありません。

聖書には、からし種程の信仰があればあなたは山を動かすことができる(マタイ17:20)と書いてあります。この小さな種は神様から来ているのです。そして、この小さな種は宇宙を動かす力があるのです。

私達が信仰をこのように理解すれば、私達は信じることと信仰の違いを知ることができます。

次に、マタイによる福音書8章5節から10節までを見てみましょう。

さて、イエスがカペナウムに帰ってこられた時、ある百卒長がみもとに来て訴えて言った。「主よ、私の僕が中風でひどく苦しんで、家に寝ています。」イエスは彼に、「私が行って治してあげよう。」と言われた。

そこで百卒長は答えて言った、「主よ、私の屋根の下にあなたをお入れする資格は、私にはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕は治ります。私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵卒がいまして、一人のものに「行け」と言えば行き、他の者に「来い」と言えば来ますし、また、僕に、「これをせよ」と言えば、してくれるのです。」

イエスはこれを聞いて非情に感心され、ついてきた人々に言われた、「よく聞きなさい。イスラエルの人の中にも、これほどの信仰を見たことがない。」

この百卒長の信仰を見てください。彼がキリストに出会いに行く時、彼はキリストを信じていたです。そして、彼がキリストに出会った時、このような信仰を示したのです。「ただお言葉をください。そうすれば僕は治ります。」と言ったのです。

このように信仰はキリストとの出会いに直接つながっているのです。それは、キリストかキリストのみことばとの関係が必要なのです。最初にみことばがあったのです。そしてみことばが実体化されたのです。

キリストは生きたみことばです。キリストに出会うか、キリストのみことばに出会わなければ、私達は信仰を持つことができません。それがなければ、何かを信じただけで、固い信仰には到達できません。

私達の生活においても同じことです。そのために私達は聖霊やお父様との交流の経験を求めているのです。そして、時が来た時、お父様の恵みによって私達が信じていることが信仰に格上げされるのです。

その信仰に私達が到達した時、私達は山をも動かす力を得るのです。からし種ほどの信仰を得る為にも、私達はキリストに出会わなければなりません。それは必要なことです。

私達はお祈りする時、「私が神様に出合うことができるようにしてください」とお祈りしてください。

次にマタイによる福音書9章20節から22節を見てみましょう。

するとその時、12年間も長血をわずらっている女が近寄ってきて、イエスの後ろから衣のふさにさわった。み衣にさわりさえすれば、治していただけるだろう、と心の中で思っていたからである。

イエスは振り向いて、この女を見て言われた、「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」。するとこの女は、その時にいやされた。

これは長血をわずらっていた女の話です。この話をよんで、「そうか、私はそれを信じさえすればよいのか」と思うかもしれません。しかし、それは違います。

信じることだけでは、いやしは起こらないし、祝福を受けることもできません。それは重要なことですが、信仰ではありません。その女性がイエス様に近づいて行く時、その衣にさわればいやされることを信じていました。しかし、彼女はそれに触らなければなりません。

皆さんは神様に触りたいですか。私達は神様に触らなければなりません。触らなければ信仰を持つことはできません。

ただ信じることは、信仰とは大きく違うことです。ローマ人への手紙9章31節から32節を見てみましょう。

しかし、義の律法を追い求めたイスラエルは、その律法に達しなかった。なぜであるか。信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである。

どれだけの統一教会の人が、行いによって得られるかのように追い求めているでしょうか。私の努力によって、私の信じる心によって、私は私の信仰基台を作る。それはすでに信仰を誤解しているのです。

信仰によらないで、私達自身の努力によって義を求めているのです。ガラテヤ人への手紙3章21節から22節を見てみましょう。

では、律法は神の約束と相いれないものなのか。断じてそうではない。もし人を生かす力のある律法が与えられていたとすれば、義は確かに律法によって実現されたであろう。

しかし、約束が、信じる人々にイエスキリストに対する信仰によって与えられる為に、聖書は全ての人を罪の下に閉じ込めたのである。

ここに「キリストに対する信仰によって与えられる」と書かれています。「私の信仰によって与えられる」とは書いてありません。イエス様に対する信仰によって与えられるのです。

誰が絶対信仰を持っていますか。信仰は与えられるのです。信じることは一部であり、私達の責任ではありますが、それは信仰ではありません。信仰は信じることが神様から与えられた意識に昇華されたときなされるのです。それは岩のように固いものです。

私がお母様と過ごした時のことを思い出すと、お母様に何が起こったのかを知ることができます。お母様が魂の闇夜を経験した時はいつも、何か暗い行動をしていました。

お母様には習慣がありました。子供達に「なぜお父様はこうなんでしょうか。」とか、「なぜお父様はこのようなことをされるのでしょうか。」とか言われていました。このような考えをいつもされ続けていました。

お母様はキリストと一緒におられたのですが、お母様の信仰は全て彼女自身から来ていたのです。お父様と共にいて、多くの恵みがお父様を通して来ている事を理解できなかったのです。

それが、自己憐憫に陥り、独善的になりました。それは、「全ては私がやった。私がお父様を作った。私はこんなに苦しんだのに、お父様はそれほど苦しまなかった。私が彼を作った。」と考えるようになられ、しだいにまわりにいる悪魔達に操られるようになってしまったのです。

全ての人が経験する信仰の闇夜を経験した時、私達は「神様、私は何か間違いをしたのでしょうか。」と問うのではなく、「神様、今何をされているのですか。」とか、「神様、今私にどのように働かれているのですか。私をどこに導いていらっしゃるのですか。」と問いかけるべきです。

私達は魂の闇夜から抜け出したいのです。私達が困難なことを経験する時、私達はそこから逃げたいのです。それには直面したくないのです。

アビラのテレサは、魂の闇夜を経験している時は雑草を抜く時ではないと言いました。信仰的に困難なことを経験している時は、雑草(不快な人やもの)を抜く時ではないというのです。それは植木屋と共に雑草の中へ行く時だというのです。

なぜなら、神様があなたを試練を与えるには理由があるからです。多くの場合、神様があなたを目覚めさせる為に、シュミタ(安息年)やスーパーシュミタのように試練を与えるのです。


私達がそのような魂の闇夜を経験している時、神様に「神様、あなたは私をどこへ導いているんですか。私は雑草を見に行きたいのです。」と問いかけるのです。

私は雑草を見たいのです。植木屋と共に雑草を見せてください。植木屋が雑草をみせてくれるでしょう。これはあなたにとってとても重要なことです。逃げることのできない重要なことです。

もしあなたがそれに対処しなければ、それはあなたを永遠に追い続けるでしょう。神様は私達に暗い夜を与えるのです。それは昼があって夜があるのと同じことです。

あなたの魂がどこにいても、その時が、あなたが雑草を見るときです。

多くの人が、キリストとの関係において喜びを追い求めます。お母様の周りに多くの悪魔や天使長達がいるのを私は見ます。彼らはキリストとの関係ではなく、車や宮殿やマンションやショッピングやレストランなどの利益をを求めているのです。

コリント人へ第二の手紙12章9節には、

「私の力は弱いところに完全にあらわれる。」それだから、キリストの力が私に宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。

と書いてあります。私達が魂の闇夜を経験している時、あるいは、信仰的に困難なことを経験している時、その弱さが私達の強さになることがあるのです。

それが神様が私達をより深いところへ導くことができるところです。神様は神様との新しい依存関係を構築する為に、わざと私達の弱点を示す時があるのです。もし私達が魂の闇夜から逃げ出さなければ、私達が死の影の谷を歩こうとも、そこには悪はありません。恐れることはありません。

天聖経を読みましょう。

絶対信仰によって、あなたは1つの位置を見つけます。それは神様が存在する絶対的な位置です。そこから全ての問題は解決し始めるでしょう。
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Author:ニコラス morison
 韓国は北朝鮮と 中国に吸収されていくでしょう。
どうして 怨み深く社会主義化してしまったのでしょう。
 なぜ?イスラエルの様に亡ぶのでしょう?
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