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エゼキエル 16:1-63  イエス様の地上に来られた目的

エゼキエル 16章

先週の礼拝部分後半   サンクチュアリーfacebook ブログよりパクリました。
 文亨進ブログより
福音とは神の国の到来を告げるもの!  3/13説教【英語説教日本語訳】その4

Kingdom of God Mar. 13 2016 Rev. Hyung Jin Moon Sanctuary Church Newfoundland2 PA on Vimeo

(神の国の)市民は権利を所有します。宗教団体の信徒には権利などありません。その権利には王であっても侵すことができません。神様もご自分が立てられた原理に従わなければならないと原理講論にもありました。同様に王国でも王は自ら市民に与えた権利を侵すことはできないのです。

マタイ伝においてイエス様は弟子たちにこう言っています。

「異邦人の道に行くな。またサマリヤ人の町にはいるな。
むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行け。
行って、『天国が近づいた』と宣べ伝えよ。

言って天国を証せよと命じられたのです。決して宗教を作り階級構造をつくるために来られたのではないというのです。ルカ伝ではこうあります。

4:42 朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。4:43 しかし、イエスは言われた。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」

ところがキリスト教の主要教義は、「イエスは(十字架で)死ぬために来た」です。しかしイエス様は自身の言葉として自分の口を通してはっきりと自分は神の国の福音を告げ知らすために遣わされたと明言しています。
「私はあなた方の為に死ぬために来た」とは一言も言っていません。「神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ」と言っておられます。聖書の中の言葉です。しかし神学はイエスは死ぬために来たといいます。ここで福音派キリスト教徒は困ってしまうのです。聖書を見ればはっきりと書いてある。カトリックなどの「宗教」の教義は横において、素直に読んでください。

イエス様自身がはっきりと、「神の国について説くためにここにいる」と言っています。これは動かぬ証拠です。マタイ伝4章23節では「イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった」とあります。

一般の教会、メソジスト、バプテスト、ペンテコステ派、改革教会などにとって福音とは、(キリストの)誕生と十字架の死そして復活、これなのです。しかし聖書にはイエスが御国の福音を会堂を回って述べ伝えたとあります。福音とは「十字架の死」「復活」ではなく「御国(神の国)のおとずれ」であったのです。

福音は十字架、死、復活などではなく御国(神の国)の到来であったということです。マルコ伝にはこうあります。「ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、御国の福音を宣べ伝えて言われた、『時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ』」。イエス様は神の国が福音であることをはっきりと言っています。十字架ではありません。

しかし福音は十字架上での死とそれに続く復活というのがキリスト教の標準的な教えになっています。私のようなことをいえば石を投げられるかもしれません。しかし神の国こそ福音なのです。

最初のアダムに神の国は与えられました。しかしサタンの誘惑にアダムとエバが引っかかることによってそれは失われてしまいました。アダムとエバが統治し、地上に主権を打ち立てるべき王国が失われたのです。それ以降はこの失われた王国を取り戻すことがすべてでした。

実際、聖書に書かれていることはすべて神の国に関わると言ってよいほどです。たしかに血統を巡る争いもあります。しかしそれも王国に絡む争いでした。

アダムとエバに予定されていた王国、しかし失われた王国、その王国をもう一度取り戻すことだったというのです。この話が皆さんの聖書の中で展開されているのです。「福音」とは「神の国」あるというのがイエス様自身の定義なのです。
マタイ伝9章35節ではこうあります。
「イエスは、すべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。」十字架の福音ではないのです。

イエス様が地上に送られた目的は「神の国」であったということです。この事実は原理を証しています。イエス様は十字架路程を歩まれました。しかしそれが神様の当初の計画ではなかったことは明らかです。

原理講論にもこれらの聖句の引用がすべて載っていたとは思いませんが聖書にはっきりと福音とは何かということが書かれています。マタイ伝24章14節です。「そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである」。十字架の福音と語っていますか?いいえ神の国の福音です。イエス様は神の国建設のための来られたのです!

またイエス様はどう祈れとおっしゃいましたか。
「天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名〔みな〕をあがめさせたまえ。
御国〔みくに〕を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ」。

キリスト教は霊界の天国に行くためにあれこれ成しなさいと教えています。
聖歌のそういう歌詞のものがあります。キリストを愛するキリスト教を馬鹿にする気はありません。キリストを中心に愛することは完璧に正しいことです。しかし聖書でははっきりと神の国の福音を述べておられるのです。

御国〔みくに〕を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。

イエス様ご自身がこう祈りなさいと教えられましたね。これは天上の神の国ではなく地上の神の国のことをいっているのです。地上天国の到来ことが福音だというのです。

今後数週にわたりこの問題を考えていきたいと思います。色々異なる聖句を用いて詳細に見て行くつもりです。これを天一国憲法の観点から見て行くつもりです。(拍手)

なぜならこの憲法こそ御国の青写真だからです。この憲法の予定する国こそキリストのみ言が成就する国であることがわかるでしょう。

過去の王国ではありません。千年王国はそれらとは全く異なるものです。来週それを分析したいと思います。神様はキリスト教徒にこの事実を突きつけるように迫っておられると思います。

「ちょっと待ってください。一緒に聖書を見てみましょう。私を信じなくても構いませんが、聖書を見て下さい。キリストは地上にも天国を作るために来られたと書いてありますよ」。

このようにキリスト教徒の友人たちに言わなければならないのではないでしょうか。
聖書それ自体が原理を証しています。神様が最初に予定されておられたのはイエス様の死ではなかった。「御国の福音を宣べ伝えるために来た」と自分の口を通して言っておられるのです。

この問題についてもっと研究しなければなりません。ところでイエス様がイスラエル人の中にもこれほどの信仰者はいないと褒め讃えた人物が誰か知っていますか。それはローマ軍の百卒長です。「私の僕が病気なのでそうか主に助けていただきたいのです」と彼は願いました。

イエス様が「わたしが行ってなおしてあげよう。案内して下さい」というと「いいえ主よ、ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります」「私は権威の下にあるものです」と言います。自分はローマから遠く離れた地で「カエサルの権威の下にある者です」といいうのです。

彼はカエサル(ローマ皇帝)にあったことはないでしょう。彼の話の主旨は「自分が皇帝の命令に従うために皇帝がわざわざ自分のところに来る必要がない」というものです。

続けて言います。「わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。

そしてイエス様に「ただお言葉を下さい。そうすれば僕はなおります」と言います。
これにイエス様は非常に感心して、「ユダヤの内に、これほどの信仰を見たことがない」と言いました。

他のイエスに従う者達と比べてどうしてこの百卒長が偉大な信仰者だというのでしょうか。それは百卒長が神の国というものを理解していたからです。ローマ帝国で皇帝が命令を下せばそれは実行されます。百卒長は民間人でしょうか役人でしょうか。政府の軍隊を指揮する隊長です。彼はイエス様を王国の主人として接したといえます。

だからイエス様が一言いえばそれはなされるものと信じていたのです。
奇跡とは何でしょうか。神様の力、権威を派手に証する目を見開くようなものでしょうか。

この世の政府を統治する偉大な王国の証こそが真の奇跡です。
この世の考え方では50年も病気を患っていたとすればもう治る見込みはないでしょう。長血を患っていた女性に、イエス様が「あなたは癒された。立って歩きなさい」と言いました。このように奇跡は偉大なる王国の王であるイエスの力を証するものだというのです。

キリストがサンヘドリン(ユダヤの最高裁判)に呼び出されたとき、一言も返答しませんでした。「ユダヤの王と言うのだな。王国を持つと。」イエス様はこれに答えませんでした。そして帝国の官僚であるピラトのもとに連れて行きましたがそこでの尋問には答えられました。

つまりイエス様は宗教裁判では発言されなかったのです。なぜなら宗教問題ではなかったからです。問題は政治的問題でした。王国の問題だったのです!

聖書は明らかに語っています。来るべき王国が問題だと。地上の王国です。話はここでやめますがまた来週聖句を引用しながら詳しく見て行くつもりです。

聖書をこのように見て行くことはとても重要だと思います。こうすることでお父様が主権、王国、王権-実体の主権国家をもつことにこだわっていかれたのかがよく理解できるからです。これらはすべて聖書的だというのです。ひねった解釈でも何でもありません。これが福音であり、良き知らせです。良き知らせとは神の国が来るという知らせです。
アーメン。

平和神経
血統の重要性 <血統の重要性>

ところで、アダムとエバの堕落以来、長い歴史を通し、神様の胸に最も痛む恨として残されてきたものが何だか御存じでしょうか
それは、天の血統を失ってしまい、兄弟圏と所有権まで失ってしまった事件です。

生命より貴く、愛よりも重要なものが血統です。生命と愛が合わさって創造されるものが血統です。これらのうち、生命がなくても、愛がなくても血統は創造されません。愛、生命、血統のうち、その実りが血統なのです。

神様の血統の中には、真の愛の種が入っていて、真の生命の体が生きています。したがって、この血統と連結されれば、神様が理想とされた理想人間、すなわち人格完成も可能であり、理想家庭も生まれるのであり、さらには神様の祖国、理想国家も出現するのです。

平和理想世界王国は、このように創建されるのです。血統の重要性は、いくら強調してもしすぎることはないということを、皆さんも肝に銘じなければなりません。

血統がなければ、生命はもちろん、愛も離れてしまいます。血統が残ってこそ、愛した自分の伝統が残され、血統が存続してこそ、父母の息遣いが継続していくのです。言い換えれば、父母に愛の実、生命の実、血統の実、そしてすべての喜びの実を提供する最初で最後の必要十分条件は、真なる血統であることを、はっきりと知らなければなりません。

ところが、生命とも取り替えられない、この血統を失ってしまいました。真の生命と真の愛の実を結べなかったのです。地球星に広がっている60億の人類が、天とは何の関係もないサタンの実に転落してしまったのです。

神様が蒔いた種が大豊作になり、秋に収穫しようとしたその園が、エデンの園でした。アダムとエバ、二人の息子、娘を育てて真の愛を花咲かせ、真の生命を花咲かせ、真の血統を花咲かせた所で、永遠の愛、永遠の生命、永遠の血統の主人と家庭、そして神様の平和理想世界王国を収穫しようとしたのが、神様の人間創造の理想だったのです。

<真の父母を探し求めてきた天の苦痛>

しかし、その場に現れたのは、偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統でした。神様の愛と生命と血統が愛の怨讐である姦夫、サタンの所有権に落ちてしまったのです。天地が真っ暗な地獄に変わってしまい、神様までも姿を隠される、そのような凄絶な世界になってしまった事実を、人間は今まで知らずに生きてきました。

怨讐の血統が生命線であるかのように錯覚し、そこに命を懸けて生きている群像こそが、今日の堕落の末裔となった人類の悲しい姿なのです。それで、この世界を地上地獄と呼ぶのです。このような悲惨な姿を見つめられる神様は、どれほど胸が痛かったことでしょうか。

本来、神様は、エデンの園にアダムとエバを創造されたのち、彼らを御自身の祝福のもとで結婚させ、天の所有権までも完全に伝授してあげようとされたのです。宇宙万象の所有権を、アダムとエバに相続してあげようとされたという意味です。

しかし、堕落によってこれらすべてがサタンの手に落ちてしまったのです。愛する子女に相続してあげるために、一生の間、汗を流して集めた財産を、一晩のうちに、強盗にそっくりそのまま奪われてしまった父母の立場になってしまったというのです。

このように、サタンに血統圏を奪われ、子女を失ってしまい、すべての国と世界の所有権まで渡してしまった、神様の悲しく無念な心情を知る者がいませんでした。したがって、血統圏と所有権を再び取り戻す道は、サタンを自然屈伏させる道しかありません。サタンを自然屈伏させる秘法とは何でしょうか。怨讐を自分の子女よりもっと愛する真の愛の力によってのみ、初めて可能となるのです。

結論として 神様が 捜し求めてきたものは何なのか 真の種なのです。
 それ以外は 無いのです。
 それを否定する 韓オモニムは 淫行の女バビロンです。
 従うものは すでに 真の子女様といえども 汚い サタンの子供たちです。
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